平和・相互扶助は人類共通の文化遺産 ―「平和を実現する人々は、幸いである」
2001年3月にアフガニスタンのタリバンがバーミヤンの大仏を破壊すると、中村哲医師が代表を務めるPMS(ペシャワール会医療サービス)のアフガン人職員が「(破壊は)遺憾で、日本がアフガン人を誤解しないように望みます」という手紙を中村医師に書くと、これに応えて中村医師は、職員との朝礼の中で次のように述べた。
「われわれは諸君を見捨てない。人類の文化とは何か。人類の文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神でなくて何であろう。それは我々の心の中に築かれ、子々孫々伝えられるべきものである」(「学士会会報」832号〔2001年〕)
中村医師はクリスチャンだが、キリスト教では「平和を実現する人々は、幸いである」(「マタイによる福音書」5章9節)と説かれ、また相互扶助の精神はキリスト教の「平等」「隣人愛」にも見られる。
平和・相互扶助は、イスラムでも宗教の根幹を成す概念である。イスラム世界の挨拶は簡略には「サラーム(平和)」であり、より長く表現すれば「アッ=サラーム・アライクム(あなたがたの上に平安がありますように)」といい、平和は常に信徒たちが意識する信条である。相互扶助は、イスラムでは貧者や未亡人、旅人を保護するために必要な宗教税を「喜捨(ザカート)」として宗教上の義務行為として定めている。
同様に、ユダヤ教でもヘブライ語聖書(旧約聖書)にはシャローム(平和)という言葉が200回余り登場し、「貧しい者に手を差しのべよ」と教えられ、ユダヤ教では「ツェダカ」の義務があり、金持ちでも貧しくても、収入の10分の1を寄付することになっている。そこには、お世話になった人への恩返し、社会還元の意味もある。さらに平和について言えば、旧約聖書の「詩篇」には「平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編34:15)とある。これは自分自身の平和を実現できる者はどこに行っても平和を創り出す資格があるという意味だ。
イスラムでは信仰の対象となる神は「アッラー」だが、これはアラビア語で「神」を意味する言葉で、アラビア語に訳されたキリスト教の聖書でも神は「アッラー」と表現され、同様にユダヤ教の神のヤハウェもアラビア語では「アッラー」となる。つまり、イスラムもキリスト教、ユダヤ教も同じ神を信仰している。
人類の普遍的価値を、中村哲医師が活動していたアフガニスタン出身のイスラム神秘主義詩人のルーミー(1207~73年)は次のように表現している。
光、それははるか彼方から届けられる。
あなたがランプに眼を奪われ続けるのであれば、
あなたはあなた自身を奪われてしまう。
ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。
あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。
そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、
二元性の限界から解き放たれるだろう。
そのようにして新たな視線を獲得すれば、
イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、
依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。
―ルーミー
(西田今日子訳)
アンダルス(イスラム・スペイン)出身のイスラム神秘主義思想家のイブン・アラビー(1165~1240年)は人間の内面は違わず、一つであることを下のように表現する。
アラブ人は「アッラーよ」と神に呼びかける。イラン人は「ホダーよ」と神を呼ぶ。ギリシャ人は「おお、テオス」、アルメニア人は「アストゥヴァスよ」と神に呼びかける。トルコ人は「タンルよ」、そしてフランク人は「クレアトゥールよ」と神に呼びかけ、エチオピア人は「ワークよ」と呼びかける。このように、呼びかける言葉は様々に違っても、その意味するところは、あらゆる被造物にとって唯一つである。
イスラム神秘主義(スーフィズム)は、ルーミーやアラビーの作品に見られるように異質の精神文化を理解しようとする寛容な精神にあふれている。スーフィズムによれば、人間の内面は、宗教は異なっても一つなのである。神の僕(しもべ)である人間に対する思いやりは神の御心に沿うものであるとアラビーは考えた。(竹下政孝「スーフィズムと人間の尊厳性 」)「人類共通の文化遺産」を忘れ、現代において戦争が繰り返されるのは利己的な経済的欲求(軍産複合体など)や、政治家がナショナリズムに訴えて自己の権力欲を満たそうとすることなどを背景にする。世界の多くの人々が共通の文化遺産を意識して、行動すれば戦争など起きるはずがない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?