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日本の憲法にあこがれたイランの人々

 イランもまたトルコと同様にヨーロッパ帝国主義の進出に苦しめられた国だった。

 ロシアは18世紀初頭より国力を充実させ、拡張政策を追求したが、その南方進出の対象となったのがイランであった。ロシアは、1801年にグルジアの一部がロシア帝国の領土であると宣言し、1804年にトランス・コーカサスに軍事的に進出した。

イラン・イスファハーン イマームのモスク


 1812年にフランスのナポレオンが再びロシアに進軍すると、イギリスは、ロシアに接近し、イランとロシアの和平を強く望むようになった。その結果締結されたのが、1813年に成立したゴレスターン条約だった。このゴレスターン条約で、イランは、グルジアとカラー・バーグなどコーカサスの8つの州をロシアに割譲した。また、ロシアは、イランにおける資産の所有権、ロシア総領事のイラン駐在、また国境貿易における5%の関税の設置などを獲得した。このゴレスターン条約は、イランとヨーロッパ諸国の不平等条約の開始であった。他のヨーロッパ諸国も競ってこれと同等の権利の獲得を目指すようになった。

 1828年に、トルコマンチャーイ条約で、さらにエレバンやナヒチャバンなどコーカサスの地がロシアに割譲され、また莫大な賠償金がロシアに与えられた。ロシアはイラン国内における治外法権も得た。

イラン バンダルアッバースのモスク


 イランでは、ロシアなどの進出を受け、弱体ぶりを露呈したカージャール朝の下で次第に革新的な運動が台頭する。こうした運動が成長したのは、日本が日露戦争(1904~05)でロシアに勝利を収めたことに関連していた。アジアの小国の日本が、日露戦争によって、ロシアに勝利をおさめたという事実は、多くのイラン人に変革への欲求をもたらすことになる。日本の勝利の原因についてイラン人が考えをめぐらした結果、立憲国家=日本の、非立憲国家=ロシアに対する勝利は、憲法こそが日本の「勝利の秘訣」であったという結論に至る。1905年の帝政ロシアにおける革命もイランの憲法制定への動きを加速した。憲法が必要だと考えるイラン人たちは、「カーヌーン(憲法)、カーヌーン」と叫び、憲法を要求し、立憲革命(1905~11)の運動に広がっていった。

イラン立憲革命 テヘラン・イギリス大使館周辺で http://www.payvand.com/news/13/aug/1034.html


 昨日は憲法記念日だったが、憲法による秩序が日本の政治・社会の安定と平和をもたらし、戦後の発展と、政府の外交政策を抑制する要因となってきた。自国の法律ですら踏みにじる為政者の怖さはいまの中東諸国の紛争や暴力が証明している。

アイキャッチ画像はイラン立憲革命運動の高揚
https://erenow.net/modern/iran-a-modern-history/7.php

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