羽衣と羽団扇

言葉のリハビリ中。長い海外生活で忘れてしまっている日本語の単語や言い回し、その紡ぎ方を…

羽衣と羽団扇

言葉のリハビリ中。長い海外生活で忘れてしまっている日本語の単語や言い回し、その紡ぎ方を取りもどすために、ふと思ったことから創作まで、いろいろと書き綴ってみます。

最近の記事

再生

In Paradisum

フォーレのレクイエムの中で一番好きな曲「In Paradisum」。 2021年は禍を超えて安らかな世界へ向かいますように。

    • 大和丸

      戦前〜戦中の台湾航路の貨客船だった大和丸。1943年9月、まだ幼かった母は親族姉弟とともにこの船に乗り込み台湾への疎開の途にあった。しかし不幸にも同13日、米潜水艦の魚雷攻撃により大和丸は撃沈されてしまう。当時8歳だった母は海に投げ出された。 同年3月に輸送船だった高千穂丸が撃沈されて以来、台湾航路は連合国軍の標的とされていたようだ。高千穂丸以後は護衛船団もつくようになったらしいが潜水艦と魚雷にはなすすべもなく、終戦に至るまでに複数隻の台湾航路船が撃沈された。翌44年には多

      • 長崎

        バブルも弾ける頃に就職した最初の2年ほどは長崎でのお勤めだった。同僚は年齢層も幅広く、仕事の後の飲み会や、休みの日にはたまにみんなで旅行に行くなど、気の置けない仲間たちに恵まれていた。 その中に当時50くらいのとても礼儀正しくおとなしい女性がいらっしゃったのだが、お身体があまり良くないらしく、急なお休みを取られることも多かった。ある日、その方が入院されたというので何人かでお見舞いに行くことになったのだが、お身体のことは何も知らされずに連れて行ってもらった先は、原爆病院だった

        • 広島

          30年以上前のこと、詩人の故米田栄作氏を訪ねて広島に行った。米田氏は広島で被爆、息子さんを失った体験と広島の復興を詩に込めて詩い続けてこられた方だ。代表作「川よ とわに美しく」を所属していた合唱団で歌うことになり、団の指揮者が詩の背景をぜひお聞かせいただきたいと願っての訪問だった。 当時はまだ九州自動車道はなく、人吉球磨川経由で八代から国道3号線で熊本に入り、玉名、久留米を経て福岡を抜けて中国自動車道に乗り広島へ向かうという長い道のりだった。普通乗用車に5人ぎゅうぎゅう詰め

          知覧特攻基地

          若い特攻隊員たちの写真はそのほとんどが笑顔で包まれている。「必死」という現実だけがその先にあるのをわかっていながら。その思いはいくばくのものだったのだろうか。 (タイトル画像は特攻の母と呼ばれた富屋食堂の鳥濱トメさんと特攻隊員たち。トメさんは僕らが学生の頃はまだご健在で、元なでしこ隊の皆さんと同様に、隊員たちのお話を語り継いでおられた。) 鹿児島の小中高生なら必ず遠足や社会科見学で訪れる場所。今は「知覧特攻平和会館」という歴史博物館となっている。復元された特攻機や兵士たちの

          知覧特攻基地

          8月

          8月に思うこと。 知覧特攻基地 広島 長崎 大和丸 白いバラ 「8月だから」とか、「8月にだけ」考えればいいということではないけれど、思うところを書いてみるかな。 (タイトル画像は <a href="https://www.photo-ac.com/profile/2676408">dokinta</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真)

          ジムノペディ No.1

          サティを弾いてみた。ジムノペディの第1番。 楽譜はビギナー向けに分類されてある。自分みたいに遊び程度でたまにピアノをさわるくらいの人間でも1週間もあれば音がとれるようになる。 左手のジャンプと9度まで開く指を克服すれば、あとは似たような和音に紛らわされなければ一応形にはなるのだ。サティ曰く「苦しみを持ってゆっくりと」弾いてくれ、という曲なので、スピードも焦らず音を拾っていけばいい。 しかし、簡単でゆっくりな曲であればあるほど、それを表現するのは至難の業。テンポ、強弱、間

          ジムノペディ No.1