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大和丸

戦前〜戦中の台湾航路の貨客船だった大和丸。1943年9月、まだ幼かった母は親族姉弟とともにこの船に乗り込み台湾への疎開の途にあった。しかし不幸にも同13日、米潜水艦の魚雷攻撃により大和丸は撃沈されてしまう。当時8歳だった母は海に投げ出された。

同年3月に輸送船だった高千穂丸が撃沈されて以来、台湾航路は連合国軍の標的とされていたようだ。高千穂丸以後は護衛船団もつくようになったらしいが潜水艦と魚雷にはなすすべもなく、終戦に至るまでに複数隻の台湾航路船が撃沈された。翌44年には多くの疎開児童を含む1500人近く(うち児童は800人近く)が犠牲になった有名な対馬丸事件も起きている。

さて、海に投げ出された母は大人たちとは離れ離れになり、救助が来るまでの間一晩以上を海原に漂っていた。周りには何人もの投げ出された人たちがいたそうだが、多くの人たちが途中で力尽きていき、またはフカに襲われて命を落としていったそうだ。8歳の少女にとってどれだけ心細く、恐ろしかったことだろう。想像もできない。

それでも運良く複数の船に救助された生存者は台湾高雄にたどり着き、母はそこでようやく親族と再会することになる。海上で救助されたのちも高雄港に着くまでは、また襲われるのではないか、みんな大丈夫だろうかと不安だったに違いない。兎にも角にもその後終戦までの2年間、台中で比較的平和に過ごしたそうだ。

台湾での生活については、「街中が不潔で汚かったぁ、みんなお店でもお家でもどこでも唾を吐くしねぇ」とあからさまにその不衛生さに不満をこぼしていたが、それでもこと人のことになると、「台湾の人たちはみんな親切だったのよ、どんな日本の人たちよりも」と絶賛していた。そして僕らが子供の頃にはまだあまり出回っていなかったマンゴーがたまにスーパーに並んでいたりすると、懐かしかったのだろう、高価でも買ってきて家族で分け合った。おかげで僕ら兄弟はみな親台、親マンゴーである。

余談だが、戦後60年も過ぎる頃、できのいい我が妹に付き添われて再び台湾の地を踏んだ母は、当時に比べると格段に衛生的になった台中に感慨ひとしおだったという。時を前後して、やはりその娘と共に台湾を訪れた母の姉は、当時台中の家で家政婦として働いていた本省人の女性の親族との再開も果たし大泣きしたそうだ。

子供の頃は幾度となくこの沈没の体験談を語ってくれた母、彼女なりに、戦争があったことをを忘れてくれるな、という思いがあったのだろうし、そのトラウマは戦後何十年たっても消えることがなかったのだろう。

母との忘れられない思い出がある。まだ6歳、8歳、10歳だった僕ら兄弟を映画館に連れて行ってくれたことがあったのだが、その時の映画が「ジョーズ」だったこと。8歳の時に目の前でフカに襲われて亡くなっていく人たちをリアルに見てきた母が、人食いザメの恐怖を描くその映画を幼少の僕たちに見せつけたのは、ゆがんだトラウマがなせる技だったのかもしれない。
戦争の傷は一生涯それを体験した人たちにまとわりつくのだろう。


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