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広島

30年以上前のこと、詩人の故米田栄作氏を訪ねて広島に行った。米田氏は広島で被爆、息子さんを失った体験と広島の復興を詩に込めて詩い続けてこられた方だ。代表作「川よ とわに美しく」を所属していた合唱団で歌うことになり、団の指揮者が詩の背景をぜひお聞かせいただきたいと願っての訪問だった。

当時はまだ九州自動車道はなく、人吉球磨川経由で八代から国道3号線で熊本に入り、玉名、久留米を経て福岡を抜けて中国自動車道に乗り広島へ向かうという長い道のりだった。普通乗用車に5人ぎゅうぎゅう詰めで乗り込み12時間の行軍だったのを覚えている。

迎えてくださった米田氏は優しい笑顔を湛えていらっしゃる方で、傍目には被爆体験の、時には生々しくみるのも辛くなるような詩を書いていらっしゃる方には見えなかった。田舎から不躾に訪れた5人の学生に対して嫌な顔一つせず、よくいらっしゃいましたと礼を尽くされて貴重な体験談を数時間にわたって語っていただけた。戦後20年以上して生まれ、平和な時代しか知らない我々には想像すらできない辛い思い出を語られる中、その優しい笑顔を絶やされなかったのが妙に印象的だった。

自分の周りや世間での話を聞いてみると、戦争を体験された世代の方で、その時代に自分が経験してきたことを家族や一般の方に語られている方は、実は少ないのでは、と感じてしまう。

終戦時、母は10歳、父は15歳だった。戦争はしっかりと記憶に残っている年齢だ。当時無邪気な年頃だった母は時折戦時中の体験を語ることはあるが、多感な時期に終戦を迎えた父からは一度も戦時中の話を聞いたことはない。

同学年には年少兵として出兵した方もいる世代。特攻兵には17歳で亡くなった方もいる。戦争が少しでも長引いていれば父の身に起きていてもおかしくなかったはずだ。お国のために、が当たり前の時代に出征できなかった自分に引け目があったのかもしれない。

優しかった大叔父になると、実戦でシベリアに歩哨として立っていたことを母から聞いたことがあるが、本人からは村の昔話や動物の話を聞くことはあっても、その口から戦争の話が語られることはなかった。シベリアの極寒の中で外に立つことが多かったためか、凍傷でそのほとんどがなくなってしまった手足の指だけが、大叔父の体験した戦争を物語っていた。

戦争体験者が多くを語ろうとしないのは、おそらくは、その悲惨さをもう思い出したくないとか、平時とは違う狂気の中で、自分や周りの人間の、今の道徳観ではとても許されないであっただろう行為などを明らかにすることができない羞恥とか、そのほかにもいろんな理由があるのだろう。そんな中で、先の米田氏は後世に語り継ぐことを選択された。

詩を作る中で何度も涙しながら当時のことを繰り返し思い出していらっしゃったのだろう。辛い思い出話しを何百何千とお話しされてきたのだろう。戦後40年以上(当時)そのように生きてきた米田氏にとっては戦争はまだまだ身近で2度とあってはならないものだった。

氏の中ではいまだに続いていた過去の悲しみと、語り継ぐことによる未来への希望の両方が、あの優しい笑顔となって現れていたのだろうか。



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