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長崎

バブルも弾ける頃に就職した最初の2年ほどは長崎でのお勤めだった。同僚は年齢層も幅広く、仕事の後の飲み会や、休みの日にはたまにみんなで旅行に行くなど、気の置けない仲間たちに恵まれていた。

その中に当時50くらいのとても礼儀正しくおとなしい女性がいらっしゃったのだが、お身体があまり良くないらしく、急なお休みを取られることも多かった。ある日、その方が入院されたというので何人かでお見舞いに行くことになったのだが、お身体のことは何も知らされずに連れて行ってもらった先は、原爆病院だった。

1945年の8月9日、母親の胎内で被爆されたそうだ。「毎回ごめんなさいね」と申し訳なさそうにされる彼女は、生まれてからずっと身体の不調に悩まされ、定期的な検診と入退院を繰り返しているということだった。”仕事させてもらえるくらいは体が動くからありがたい、そうできない人も多いから”というようなことを言っていたのだが、あぁ、そうだよな、ここにいる人の大半は直接、関節に関わらず被爆の後遺症を持った人たちなんだ、と実感した。

仕事で会う人、街ですれ違う人の中に、彼女のような人はたくさんいたにちがいない。戦争を知らない彼女が被爆したように、これからも原爆症を持って生まれてくる人もいるにちがいない。この時初めて自分が原爆を投下された街に住んでいるという現実、そしてそれは過去のことではないという現実に気付かされた。日本人である限り、核兵器廃絶には声を上げ続けなければとの想いも改めて湧いた。

図らずもこの何年か後には仕事をかわって添乗員としてシーズンになれば何組もの修学旅行の生徒を長崎の原爆資料館に案内するようになる。その度に彼女を見舞ったときのことを思い出され、感受性の高い子たちが資料の前で涙を流すのを見て、ホッとしたりもした。自分はというとバスガイドが語る永井隆博士の話には毎回泣かされた。

そしてやはりそんな学生たちを原爆資料館に案内したある深夜、先生方との懇親会の最中にテレビで衝撃的な映像が流れたのをよく覚えている。2001年9月11日。航空機がニューヨークのツインタワーに突入し、タワーが崩れるというまるで映画のような映像。平和学習のちょうどその時にそんなテロが起ころうとは夢にも思っていなかった。なんてことだ、、、。

人が想像するものはおよそ全て現実化するというのが持論だ。恒星間航法もタイムマシンも、そして核兵器廃絶も”人類の歴史が続く限り”いつかは実現すると思っている。ただ、その実現の前に人類の歴史を終わらせるような愚かなことにだけはならないことを祈ってやまない。

(タイトル画像は <a href="https://www.photo-ac.com/profile/400165">Dunhill</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真)


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