見出し画像

知覧特攻基地

若い特攻隊員たちの写真はそのほとんどが笑顔で包まれている。「必死」という現実だけがその先にあるのをわかっていながら。その思いはいくばくのものだったのだろうか。
(タイトル画像は特攻の母と呼ばれた富屋食堂の鳥濱トメさんと特攻隊員たち。トメさんは僕らが学生の頃はまだご健在で、元なでしこ隊の皆さんと同様に、隊員たちのお話を語り継いでおられた。)

鹿児島の小中高生なら必ず遠足や社会科見学で訪れる場所。今は「知覧特攻平和会館」という歴史博物館となっている。復元された特攻機や兵士たちの手紙や写真、太平洋戦争の背景など様々な記録が収められている場所だ。

鹿児島時代、短い間だが、旅行会社の添乗員をしていたことがある。仕事の中で大半を占めていたのが南薩をめぐるバスツアーだった。ルートには知覧基地も含まれるので、かのちには何十回も足を運んでいる。

中高時代にすでに数回足を運んでいる場所ではあったけれども、どれだけ行っても「慣れる」ことのない場所だった。特攻隊員の直筆の手紙を読んで毎回泣いていた。週に1〜3回ほど訪れていたのだが、あまりにも辛くて添乗時代の後半にはついに入館はせずに会館前でお客を送り出して外で待つようになった。

それから20年以上経った今、考えてみればなんとさもしいことをしたものだろうと思ってしまう。もっともっと苦しみながらでも資料を見て、泣いて、若くして散っていった隊員たちの言葉を胸に刻んでおくべきだったと悔やまれてならない。今生きている自分たちが彼らに報いることができるとすれば、それは彼らが生きていた証を心に焼き付けることくらいしかないだろうから。

一昨年、父の米寿の祝いに南薩一周一泊旅行をする機会があった。鹿児島をあまり知らない兄嫁も訪ねてきてくれたので、「なら知覧には行かんとねぇ」という両親の提案で20年ぶりに特攻会館へと足を踏み入れた。待ち受けている馴染みのものに対応して、入館前から涙が溢れてしまった。そして家族の誰よりも長く会場内に居残り、後ろ髪を引かれる思いで会館を後にした。

これからも機を見ては訪ねてみたいと思う場所。これからも涙越しに彼らの生きた証を刻んでいこう。かりそめの平和にあぐらをかくことのないように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?