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私たちはどう生きるべきか?―スピノザ【百人百問#021】

SNSには「正論」が溢れている。
学校教育に漢文は不要だ、その議員を選んだのは国民自身だ、痩せたいなら食べなければいいだけ、いじめられるなら転校すればいい、毎日30分の継続が重要だ、うんぬんかんぬん。

どれも正論ではあるものの、「そうは言っても」と言いたくなるものもある。そんな中に、「なぜ自殺はダメなのか?」というものがある。自由意志が大事なのであれば、自殺も自分の意志なので、他人に迷惑をかけていないのであればいいのではないか、というものである。

なんだか正論のような気もするけれど、それを認めてはいけないような気もする。個人主義の行きつく果てのような言説だが、反論できる言葉を持ち合わせていないので、沈黙せざるを得ない。

自殺はなぜダメなのだろうか?
その疑問に答えてくれたのが、今日の主役であるスピノザだ。

スピノザは難解な哲学者だと言われており、理解するのがとても難しい。しかしながら、最近では國分功一郎さんがスピノザに関するさまざまな著作を書いてくれているおかげで、一般人でもスピノザの一端を学ぶことができる。今日は國分さんの100分de名著シリーズの『エチカ』や講談社現代新書の『はじめてのスピノザ』を参考に、「自殺はなぜダメなのか?」について探究してみたい。

スピノザは17世紀のオランダの哲学者で、デカルトやライプニッツと同様に近世合理主義哲学の一端を担っている。アムステルダムの裕福なユダヤ人の家庭に生まれたものの、旧来の宗教観に疑問を持っていた。

1656年、そんなスピノザに事件が降りかかる。24歳の誕生日を迎えようとするときに、ユダヤ教会から破門されるのだ。伝統に寄りかかるだけの保守的な教会のあり方に疑問をもち、教会側としては生意気な若者にちょっとお灸を据えてやろうという程度の軽い「破門」だった、と國分は書いている。

ガリレオ(#017)もしかり、真理を探究するために教会と対立することはヨーロッパの哲学や科学には欠かせないエピソードなのかもしれない。スピノザはこのあと、教会から隠れるために匿名で出版したりもしている。ちなみにスピノザもガリレオ同様にレンズを磨くのが上手だったそうだ。

スピノザはアムステルダムを離れることになる。
頑固なカルヴァン教徒である兵士たちに同行されながら、”危険な異端者”として船で旅立つことになった。その旅立ちの直前にスピノザは兵士たちに「一緒にビールを飲もう!」と誘ったという。

兵士たちは戸惑いながらも、スピノザの「釣り」の話に魅了されて、1時間ほどビールを共に飲んだそうだ。ここにスピノザの人柄が表れている。生真面目な哲学者ではなく、豪快なおじさんだったのかもしれない。人を肩書きで判断してはいけないと反省する。

さて、スピノザの哲学に進みたい。
スピノザは『デカルトの哲学原理』や『神学・政治論』などを書いているが、何より有名なのが『エチカ』である。遺稿集として死後出版されたものだ。

そもそも『エチカ』とは「Ethics(倫理)」であり、ギリシア語の「エートス(ethos)」から来ている。この語源から考えることが重要だと國分功一郎は言う。

「エートス」は、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むにあたってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまりエチカとしての倫理の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』p.30

つまり、『エチカ』には「どう生きるか?」が書かれている。この生き方を考えるために、一つひとつ世界の前提から定義し直し、考える土台を用意してくれているのが『エチカ』であり、スピノザ哲学である。ユダヤ教的な世界ではなく、改めて「私たちはどう生きるか?」を哲学している。

さらに『エチカ』が難解な本だと言われている所以はその書き方である。ユークリッドの『幾何原論』をもとにしていることもあり、数学の証明のように著されている。副題にも「幾何学的秩序によって論証された」とあるくらいだ。

冒頭はこうだ。

定義
一、自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、を解する。
ニ、同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。(中略)
三、実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。

スピノザ『エチカ』(岩波文庫)、p38

特に序文もなくこんな風に始められると、一般読者は眠気か吐き気をもよおすだろう。数学書か六法全書を読んでいるようで、何も頭に入ってこない。なぜこのような書き方をしているのかをスピノザ自身はこう語っている。

ユークリッドはきわめて単純でまったく理解可能なことしか書かなかった。だから誰によってでも、またどんな言語ででも容易に説明される。じっさい、われわれがユークリッドの考えを捉え彼の本当に言いたかった意味を確信するためには、彼の書いた言語について完璧な知識を持っている必要はない。ただきわめて一般的な、ほとんど初心者程度の知識を持っているだけで足りる。また、かの著者の生涯や情熱・モラルなどを知る必要もないし、どの言語で・誰に向けて・いつ書かれたのか、あるいはその書がどういう経過で伝えられ・どのような異本があり・いかにして、まただれの発議によって正本が認められるようになったのか等々について知っている必要もない。

スピノザ『神学政治論』第7章

つまり、スピノザは「まったく理解可能」にするために、この形式にこだわったのだ。ユークリッド幾何学がいまなお誰にも明らかなように、この『エチカ』もまた、時代背景や当時の前提などを排してでも、「読める」ように編集されている、というのがスピノザの考えなのである。

『エチカ』は「定義」に続いて、「公理」「定理」「証明」へと進んでいく。数学と同様に「Q.E.D」で締められていく。一つひとつ概念を整理し、そこから導かれる言説を証明完了していくのだ。

だからこそスピノザは「初学者程度の知識を持っているだけで足りる」と言っているが、むしろ一般人にとっては”逆に”難解になっている。法律家にとっては理路整然としている六法全書が、一般人には難解なのと同様だ。

ユークリッドの『原論』や六法全書のような定義やルールを重ねていく文章スタイルの場合、「事例」を考えたほうがわかりやすいことは多々あることだ。判例が必要ということだ。

たとえば、実際の図形問題を考えるなかでユークリッド幾何学が理解できるようになり、実際の殺人事件を考えるなかで六法全書の意味がわかってくる。実践から得られることも多い。

そういう理由からか、國分功一郎は「どこから読んでもいい」し、「第四部」から読むことをおすすめしている。書かれた順番と考える順番は必ずしも同じである必要はないのだ。

スピノザを読むことは新しい「OS」を入れることに等しいと國分は言う。

スピノザの場合、OS(オペレーティング・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない……。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』、p5

つまり、図形問題をユークリッド幾何学で、殺人事件を六法全書で思考できるように、スピノザ哲学によって「どう生きるか?」を思考するOSを手に入れることができる。

ということは、いろんな「問い」を投げかけると、ChatGPTのように『エチカ』は答えてくれると思ってもいいかもしれない。ここでは「ChatETC(チャットエチカ)」に対して、問いを投げかけながらスピノザに迫ってみたい。

最初にたとえば「男らしさを求められますが、どうしたらいいですか?」と「ChatETC」に投げかけてみる。

まず、『エチカ』は「コナトゥス」という概念を提供する。
「努力」と訳されているが、むしろ「個体をいまある状態に維持しようとして働く力」や「恒常性」と呼んだほうがいいと國分功一郎は言う。

たとえば、のどが渇けば水が欲しくなり、水分が多いとトイレにいきたくなる。このように一定に保とうとする力が「コナトゥス」である。

そして、この「コナトゥス」が「本質」であると、スピノザは言う。

おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力(コナトゥス)はその物の現実的本質にほかならない。

スピノザ『エチカ』第三部定理七

「自己の有」を「存在」と読み替えると、「自分が存在しようという力は、その人自身の本質」である、ということになる。

ちなみに、アリストテレス以来の哲学では、自身の存在は「形相(エイドス)」に依存すると言われていた。つまり「見た目」である。しかし、スピノザは存在の本質を「力(コナトゥス)」に見出した。どういうことか。

これについてドゥルーズが農耕馬と競走馬の比喩を用いている。

たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群を持っているのである。

ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』p240

つまり、農耕馬は畑を耕すことが「力」であり、競走馬は速く走ることが「力」であるので、本質的に違う。見た目(エイドス)は同じ馬として分類されるにもかかわらず、その「コナトゥス」が異なるため、本質が異なる、ということになる。農耕馬はむしろ農耕牛に近いのだ。

こうなってくると、「ChatETC」へ投げかけた問いである「男らしさを求められますが、どうしたらいいですか?」に答えられそうだ。

つまり、人間もまた「見た目(エイドス)」はみな同じかもしれないが、その「力(コナトゥス)」が異なるので、本質的にみんな異なっているということだ。「男」というエイドスで分類されてしまったことで、勝手に「男らしさ」などという枠組みに押し込められてしまう。

では、何がその人の本質なのか。それに対してスピノザは「欲望」であると言っている。

欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることをなすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである。

スピノザ『エチカ』第三部定理五六証明

わかりにくい説明ではあるが、つまりは、aという状態からAという状態に向かう欲望そのものが「力(コナトゥス)」であり、それがその人自身の本質ということになる。

ありていにいれば、「どうあるか?」ではなく「どうありたいか?」がその人の本質ということになる。つまり、男や女のような生物学的なエイドスではなく、「どうありたいか?」によって人それぞれの本質は異なるということだ。

生物学においても次第にエイドス型ではなくなっているらしい。サメとイルカはもともとは「見た目」で同じ種類に分類されていた。しかしながら、研究が進むと、その本質は魚類と哺乳類で全く異なることが判明した。本質が異なるからこそ、いまでは当たり前のように違うものとして扱われている。

人間も同様に、見た目では「男/女」として分類されていたものが、現在では多様な性の在り方が広がっている。むしろ性の分類のみならず、その人の本質を見極めることが重要になっているので、時代はスピノザに追いついてきているのかもしれない。

ということで、「Q.E.D」とまではいかないまでも、「男らしさを求められますが、どうしたらいいですか?」に対して「ChatETC」は「自身の欲望に従え」とでも返してくれるだろう。

さて、すでに長くなってしまったが、最初の問いを「ChatETC」に投げかけてみたい。「自殺はなぜダメなのか?」。
これは『エチカ』の第四部でそのまま言及されている。

あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。

スピノザ『エチカ』第四部定理二〇備考

つまりは、食の拒否と自殺は、自分で選択しているのではなく、「外部の原因に強制」されているという。

ここで疑問が生じる。
「自殺する自由」は無いのか?ということだ。これに対してスピノザは明らかに否定する。スピノザは自由を「コナトゥスがうまく働いている状態」と定義している。「自由=何でもできること」ではなく、「コナトゥス」が鍵なのだ。

コナトゥスは力であり、欲望であり、本質だった。
農耕馬が耕すことを本質にし、競走馬が走ることを本質にしていることだった。ということは、「死」はその人のコナトゥスがうまく働いているかというと、決してそんなことはなく、もっともコナトゥスが失われた状態になる。

自殺や拒食症は、力そのものが踏みにじられる状態であり、外部の力によって自分が完全に支配されてしまい、うまく自分のコナトゥスに従って生きることができない状態なのだ。

また、そもそもスピノザは「善と悪」に対して「絶対的な善/悪は無い」という前提で、こう定義している。

我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを〔……〕、言いかえれば〔……〕我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。

スピノザ『エチカ』第四部定理八証明

つまり、善とは「存在の維持に役立つ」ものであり、「活動能力を増大」するものなのである。この活動能力の増大を感じるときに、人は「喜び」を感じるとしている。

だからこそ、「死」は自身の存在を妨げ、活動を減退させるものである。たとえ自分の意志で「死」に向かっていようとも、それは「活動能力の減少」であるがゆえに「悪」であるのだ。

ということで、「自殺がなぜダメなのか?」に対しては、「ChatETC」はこう答えるだろう。

「そもそも自殺は自身の活動能力を減少させるものであるので悪であり、自身の自由な意志などではなく、外部に強制された状態なのでダメなのだ」

まだ「ChatETC」を自由に使いこなすことができないので、「ChatGPT」ばりにイマイチな回答かもしれないが、繰り返し使っていくうちに性能もよくなるかもしれないので、今日はβ版ということでご了承願いたい。

ということで、『エチカ』を「チャットボット」に見立てて読み解いてみたが、こうやって使っていくことが『エチカ』には重要なようだ。これを國分功一郎は「実験」と呼ぶ。

スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合うかを試してみるということです。もともとは道徳もそのような実験に基づいていたはずです。それが忘れられて結果だけが残っているのです。ですから、道徳だから拒否すべきだということにはなりません。ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されることがあるならば、注意が必要になるわけです。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』p.39

ChatGPTが大量の情報をもとに成長していくように、『エチカ』もまたたくさんの試行錯誤によってうまく使いこなすことができるようになるのだろう。

私たちはどう生きるべきか?
この難しい問いに対して、『エチカ』およびスピノザ哲学はさまざまな悩みや問いを投げかけてみることで、答えに辿り着けるようになる。自身の住まう「エートス」の中でより善く生きていくために、「ChatETC ver.10」くらいを目指して、スピノザと向き合っていきたい。


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