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いかに真理を追求するのか?―ガリレオ・ガリレイ【百人百問#017】

今年はマンガ『チ。―地球の運動について―』が完結した年だった。ビッグコミックスピリッツで連載された本作は、「地動説」を命がけで守る研究者たちの激動を描いたフィクション作品である。

「チ」は、"血"を流すほどの異端審問を受けようとも、"地"球の真理を追求するための、"知"は継承され続ける、ということを象徴している。太陽系の惑星の個数である8巻で堂々完結した。

最終話がどうなるか、マンガ好き界隈も科学好き界隈もソワソワし、その劇的なラストに、知を探求する者たちへの畏敬と知的ロマンへの憧憬などでSNSは賑わっていた。

『チ。』はフィクションではあるため、地動説によってどこまで人々が迫害されたのかは実際はわかっていない。後世過剰なヒロイズムによってストーリーづけられたとも言われている。

とはいえ、異端審問裁判を受け、地動説を否定されながらも、「それでも地球は回っている」とまことしやかにつぶやいた人物がいる。ガリレオ・ガリレイである。今日はブルーバックスのウィリアム・H・クロッパー著『物理学天才列伝』を参考にガリレオの地動説を追いかけたい。

『チ。』は15世紀が舞台であるが、ガリレオが地動説を支持したのは17世紀のことである。ガリレオはピサの斜塔の実験で有名だ。物体は重ければ早く落ちると信じられていたことを、ピサの斜塔から重さの違う2個の物体を落とすことで、その説を覆したというのはあまりにも有名だろう。

これは、2000年前のアリストテレスの原理の否定であり、権威に屈しないというガリレオらしいエピソードとして伝えられている。しかしながら、この逸話はガリレオの弟子が作り上げたもので、実際は斜めに置いたレールで実験されたというのが現在の通説になっているそうだ。科学史というのは過剰に盛られる特性があるのかもしれない。

このエピソードが信じられるほどガリレオという人物は挑戦的で、機転が効き、皮肉好きだったという。さらに、実験好きで職人気質だったことも重要だ。

当時、オランダの眼鏡職人が遠くの物体をずっと近くに見ることができる光学装置「望遠鏡」を発明した。その知らせを聞いたガリレオは、そこに素晴らしいチャンスを感じ取った。オランダの商人がやってくる前に、自分で試作品をつくり、ヴェネツィア当局に披露すれば、莫大な報酬がもらえるだろうと画策したのだ。

オランダ人の装置は凸レンズと凹レンズの組み合わせだろうと推測したガリレオは、持ち前のレンズ研磨の能力を駆使して、オランダの職人がつくったものより高性能の望遠鏡を完成させたという。

ガリレオが欲しかったのはお金だけではなかった。
名声や影響力を求め、手の込んだ儀式によって倍率8倍の望遠鏡をヴェネツィア総督のニッコロ・コンタリーニに進呈する。それはきらびやかな式典で、名士や軍使、職人で溢れかえっていた。その甲斐もあり、ガリレオは高額の特別手当をもらい、給料は倍になり、終身教授の職にも任じられた。策士である。

自作の望遠鏡を手に、ガリレオは数々の発見をする。月面にそびえる山脈、木星の4つの惑星、金星の満ち欠け、太陽の黒点などを発見し、1610年に『星界の報告』という本を出版する。

この本はイタリアだけではなく、ヨーロッパじゅうで評判になる。しかし、ガリレオの戦術はこれで終わらない。『星界の報告』をメディチ家のコージモ・メディチに捧げ、木星の4つの惑星を「メディチ星」と名付けたのだ。

だからこそ、『星界の報告』の冒頭には「第四代トスカナ大公コジモ・デ・メディチ二世殿下」宛てに献辞が書かれており、こういう文章を綴っている。

殿下の御高名のために取り置かれた四つの星をご覧ください。それらの星は、ありふれており、輝かしさの点で劣る不動の星[恒星]の一員ではなく、さまよう星[惑星]という輝かしき階位に属するものです。
(中略)
他の何にもまして殿下の御高名にこれらの新しい惑星を捧げることを、かの星々の創造者が明瞭な標しによって私に促しているように思われます。

ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』p11

読んでいて恥ずかしくなるほどメディチを持ち上げている。献上した甲斐もあり、ガリレオはトスカーナ地方の主任数学者兼自然哲学者という肩書きを獲得し、給料は裁判官の最高額にも等しい額を得るようになる。またしても策士である。

ガリレオはこのおかげで、小さい頃を過ごしたトスカーナのフィレンツェで過ごせることになる。しかし、まだ満足はしていなかった。次に取り込みたい相手がいた。それがローマ、つまりカトリック教会である。

そこで1611年にローマを公式訪問して望遠鏡を披露し、ヴァチカンに自分の天文学上の発見がいかに重要かを説きたいと、トスカーナ大公に申し出る。しかし、この行動には落とし穴があった。

ガリレオの発見の一つに、地球が宇宙の中心であることを否定する証拠があったのだ。ガリレオは当時すでにコペルニクスの地動説を支持していたが、教会はいまだプトレマイオスの天動説を支持し、聖書では月と太陽は完全な球体であるとされていた。しかしながら、ガリレオの観測結果は金星が太陽を中心に回っていることや、月面に山や谷があり球体ではないことを示していたのだ。

しかしながら、ここですぐさま異端審問になるかというと、そうではなかった。この謁見自体はおおむね成功し、法皇から祝福と支援を賜った。事実は小説ほど劇的な展開にはならないこともあるようだ。とはいえ、教会はガリレオの主張を肯定したわけではなく、ベラルミーノ枢機卿にガリレオの説を吟味するように託されたのだった。

外交上手で機転の効くガリレオに対して、貴族の中には友人も敵もいた。たとえば、1611年にはガリレオ批判のリーダーとの学問上の決闘を繰り広げる。その聴衆の中には枢機卿やコージモ大公などがいた。その決闘ではガリレオが勝利し、枢機卿などの支持を得ていた。

さらに翌年にはイエズス会の神父もガリレオの説に対抗し、太陽の黒点の誤った解釈を広めようとしていた。それが許せなかったガリレオは挑戦的な手紙を神父に向けて書き、出版しようと試みる。

そこで初めてガリレオはコペルニクスの宇宙論を支持していることを断言することになる。

三日月状の金星と同じく土星も、偉大なコペルニクス体系と見事に一致すると申し上げる。今やこの体系に追い風が吹いている。これほど明るい道しるべが横なぐりの風や影に邪魔される恐れは、ほとんど残されていない。

そこからガリレオの猛攻が始まる。コペルニクス的考え方を広め、観測と教義が矛盾したら観測が優先されると力説する手紙を書いたりもしている。

聖書の第一の目的は、神を敬い魂を救うことです。しかし自然現象に関する議論では、聖書の記述の引用からではなく、感覚的経験と不可欠な実証から始めるべきです

この時期が人生の転換期だった。
ドミニコ会の修道士カッチーニや司祭ロリーニから異端として取り上げられ、ローマの宗教裁判所に告発されたのだ。ここからかの有名な「ガリレオ宗教裁判」が始まる。

すぐに出頭すれば穏便に済んだかもしれないが、ガリレオは病気もあり、1615年になってようやくローマに出発した。ローマ側はコペルニクスの学説を検討し、「ばかげていて理屈に合わず、公式に異端である」と判断していた。

ここでガリレオは実は抵抗することなく、ローマの決定を受け入れた。覚悟して刑の結果を待ったものの、その結果はコペルニクスの地動説を禁ずる布告が出され、コペルニクスの『天球の回転について』が閲覧禁止処分になったのみだった。『チ。』のような「血」の制裁ではなかった。

根っからの楽天家だったガリレオはこの展開にむしろ勇気づけられ、それまでと同じく、懲りずに率直な考えを問いて回ったという。病に臥せることも増えていたそうだが、コペルニクスの宇宙論を否定するような論が流布するたびに、奮い立って行動を起こした。

いまだ地動説を否定する言説が流れるたびに、激昂型のガリレオは頭に血がのぼる。1621年には怒りとともに、『贋金鑑識官』という本を出版し、コペルニクスの宇宙論を主張した。

自然哲学は宇宙という偉大な書物に書かれていて、常に我々の眼前に広げられている。しかしこの本を理解するには、まずその言語と、それは数学の言語で書かれており、その文字は三角形や円といった幾何学図形であって、これがなければ人間の力では一単語たりとも理解できず、暗い迷宮をさまよい歩くことになってしまう。

ガリレオ・ガリレイ『贋金鑑識官』

その後、ローマへ趣き、顕微鏡を披露し、ローマの目利きたちを驚かせたり、当時の教皇ウルバヌス8世にも謁見している。ガリレオに好意的な教皇はコペルニクスの宇宙論を異端とまでは非難せず、「軽率だ」と言うだけだったそうだ。

さらにガリレオは『天文対話』(正式タイトルは『二大世界体系に関する対話』)を出版する。これは、より一般大衆にもコペルニクス的宇宙論を広めるもので、対話形式で書かれている。

まるで空海(#001)の『三教指帰』のごとく、2人の論者と中立論者との仮想鼎談方式をとっており、コペルニクスの体系とアリストテレスの体系を議論させている。表向きには結論は出ないようになっており、読者はその論争を楽しんだ。むしろ多くの共感を集めたという。

1632年に再びローマに出頭を命じられる。ガリレオもなかなか懲りないが、ついに翌年2回目の異端審問所審査が開かれた。そこでようやくガリレオの地動説に関する言説に対して有罪が告げられ、終身刑が言い渡された。ガリレオはさすがに呆然とし、「それでも地球は動いている」(E pur si muove)と呟いたそうだ。これも真実かはわかっていない。科学史に紛れ込む過剰な演出かもしれない。

そのあと、ガリレオの友人たちの尽力もあり、刑罰は減刑され、大司教のもとでの監視程度となった。自宅軟禁になったガリレオは最後の著作『新科学対話』を1638年に出版することになる。

以前の対話篇と同様に、コペルニクス派とアリストテレス派で論争させている形式をとっている。ハイゼンベルク(#015)が対話を重視したように、科学の進歩には対立する者同士の対話や議論が欠かせない。

この対話篇でアリストテレスの学説を支持する者の名前が「シムプリチオ(単純野郎)」だったところにも、ガリレオの気の強さといたずら心が垣間見える。

この4年後にガリレオは没する。地動説はどうなかったかと言うと、まだ完全に証明されるまでには月日がかかる。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、ケプラーの公転に関する三法則の提唱(1619)、ニュートンの万有引力に基づく軌道解析(1687)などを経て、ブラッドリーの光行差の発見(1727)、ベッセルらの年周視差の検証(1838)によって、地動説が確固としたものになっていく。

つまり、まだガリレオから200年が必要になる。科学の進歩は歯がゆいものだが、宗教はさらに時間がかかる。いまでは地動説が常識になっていることを考えると、ガリレオ裁判は結局、誤っていたことになる。

それに対して、ローマ教皇ヨハネパウロ2世は1992年にガリレオ裁判の誤りを認め、公式に謝罪した。つい30年前のことだ。ガリレオがこの世を去ってから350年後のことだった。

いかに真理を追求するのか?
真理には時間がかかる。一朝一夕で結論を出すには世界はまだ未知で溢れている。ガリレオのようにユーモアと機転と情熱をもって、知の探究に向かう姿勢を忘れずにいたい。


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