見出し画像

"みんなの意見"はどこにあるのか?―ウォルター・リップマン【百人百問#009】

今年のサッカーワールドカップは波乱の只中だ。
ドイツに勝利した奇跡の瞬間を皮切りに、日本全体でサッカー応援ムードが盛り上がり、コスタリカの敗北を機に、「手のひら返し」がトレンドを席巻した。

そこには、あからさまな手のひら返しの声から、手のひら返しする日本人はどうかと思うという指摘から、そもそもスポーツを応援するときに手のひら返しはつきものだという主張まで、"手のひら返し"がこれほど叫ばれたことはなかったかもしれない。

そしてさらに、スペインへの勝利が「手のひら返し」の「手のひら返し」を巻き起こすことになる。もはやこれは手のひら返しではなく、一喜一憂するスポーツの醍醐味なのではないかとも思ってくるほど、日本は熱狂の渦に包まれている。

森保ジャパンを心配しながらもずっと応援してきた熱狂的ファン、ワールドカップを楽しみにしていたサッカーファン、ドイツ戦から盛り上がっているにわかファン、コスタリカ戦を批判したTwitter民、スペイン戦で「やっぱり日本はすごい」と熱弁するワイドショーのMC。

みんな、サッカーを楽しんでいる。でも、テレビもTwitterもスポーツバーにも縁の無い人は、その盛り上がりすら知る由もない。

では、”みんな”とはどこにいるのか?
みんなが言っている”みんな”とは誰なのだろうか?

この問いを深掘るべく、二十世紀最高のジャーナリストとも評されるウォルター・リップマンの思考を追いかけてみたい。直接リップマンの著作を読み解くのはハードルが高かったため、今回は「100分de名著」の別冊『メディアと私たち』の堤未果さんの話を参考にしたい。

リップマンの著作に『世論』がある。
メディア論やジャーナリズム論の古典的名著である。リップマンは1910年にハーバード大学を卒業し、ジャーナリストを志す。新聞記者や雑誌の編集を経験した。

当時のメディアは、エリートの特権階級が大衆に対して情報を与えるという意識が強かった。もちろんリップマンもスーパーエリートで、20代の若さでウィルソン大統領のチームのアドバイザーとして呼ばれることになる。当時は第一次大戦が始まるなか、ウィルソン大統領は中立を公約に再選する。アメリカの”世論”は平和路線だったのだ。

しかしながら、戦争が進むにつれて、自国の権益をめぐる財界の要求や、ドイツへの危機感など、参戦への必要性が高まっていった。そこで、リップマンは大統領に対して、平和ムードから参戦へともっていくための計画書を提出している。

世論を変えるために、学者や知識人、エンターテインメントの有名人など、大衆に影響を与えるキープレイヤーが招集し、世論操作モデルを設計したと言われている。新聞、映画、雑誌、学校、街頭ポスターなど、徹底的なプロパガンダが喧伝されていった。

さらには捏造されたドイツの残虐性の情報までも活用し、参戦ムードを醸成していくことになる。その6ヶ月後、見事なまでにアメリカの世論は参戦へ傾いたのだ。まるで現在のロシアを見ているようで、テレビなどに情報を依存しているロシアのシニア世代が参戦ムードにあったことはしばしば報道されていた。

ドナルド・ノーマン(#002)が「人をどう動かすか?」と探究したユーザーインターフェースとは異なり、リップマンの「動かし方」は扇動に近いものだった。

ここでリップマンは成功しすぎたことに対して、むしろ怖くなった。参戦は実現したものの、そのムードは加熱し、逆に反対意見の人々への言論統制までにエスカレートしていったからだ。

この世論の変貌する現象を改めて分析し、整理しておかなければならないと思い、リップマンは『世論』を執筆したという。つまりこれは我に返ったリップマンが、世論の正体を冷静に分析した本である。と同時に、その分析が「世論操作」についての指南書にもなってしまっている。

この功罪両面を持ち合わせたのが『世論』という本の恐ろしさである。リップマンはこれ以降、政府とも距離を取り、言論弾圧や思想統制に一貫して反対し、第二次大戦のマッカーシーの赤狩りも徹底的に批判した。

しかしながら、アメリカ政府はプロパガンダの手法を磨き、軍事戦略ではインテリジェンスの比重を拡大していき、ナチス・ドイツやソ連などもこの本を研究し、自国のプロパガンダ理論を構築していく。ヒトラーが本書を絶賛したという話もあるくらいだ。そういう意味では「悪魔の書」でもあったのだ。

本書の中でリップマンは世論について、「イメージ」と「ステレオタイプ」が重要であると綴っている。そもそも人は経験したことのあることしかイメージすることができない。本書の中の例として、アメリカ中西部の女性が「戦争」と聞いたときに、将軍や皇帝が一騎打ちをしている姿しか思い浮かばなかったという。

また別のエピソードでは、ペンシルヴァニアの女性がある日、窓ガラスが割れた瞬間を目にする。そこから故郷に古くから伝わる迷信を想起し、「父が死んだ」と思い込んでしまったという。

どちらのエピソードでも、人は自身の想像や象徴から逃れられないことを示唆している。リップマンは自分の中にある虚構や象徴との混合物を「疑似環境」と呼び、人々は疑似環境に反応し、行動を起こしていると論じた。コスタリカ戦のツイートの嵐は虚実入り交じる、まさに疑似環境だった。

実際の戦争や実際の父の死とは関係なく、それぞれの女性が想像できることをもとに行動が起こる。ここに目をつけた。これはコロナの流行でも見えてくるだろう。感染症やワクチンに対する自分が持っている想像の範囲でしか判断できない。「副反応」というものがイメージできないと、注射後に高熱になれば怖くなる。免疫の仕組みやmRNAなどに対して普通、人はイメージできないからだ。

ノルベルト・ボルツ(#005)が言っているように、世界は複雑化しすぎている。原因と結果を単純に結び付けられないほど、情報が相互に連環している。だからこそ、大きな物語を欲したり、意味を求めたりする。敗北は監督の無能のせいにして、勝利は「日本人の最後まで努力する精神」のおかげにする。人々はいつの時代も分かりやすい理由が欲しいのだ。

同じように社会情勢に関しても、自分が思い込んでいるイメージで処理できたほうが楽であり、心地よい。陰謀論にしたほうが納得しやすいし、単純化しやすいからだ。

リップマンは『世論』の中でこう語る。

真の環境があまりに大きく、あまりに複雑で、あまりに移ろいやすいために、直接知ることができないからである。(中略)われわれはそうした環境の中で行動しなければならないわけであるが、それをより単純なモデルに基づいて再構成してからでないと、うまく対処していくことができないのだ。

ウォルター・リップマン『世論』

つまるところ、「世論」とは人々の「疑似環境」を構成している「頭の中に描くイメージ」そのものに他ならない。それは「実体のないフワフワしたもの」であると堤未果も言う。そのイメージが社会の中であたかも集団の意見として形付けられる。

さらに、そのイメージを出来合いの型にはめることを「ステレオタイプ」と呼ぶ。この「ステレオタイプ」という言葉を生み出したのもリップマンだと言われている。

われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義しているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。

ウォルター・リップマン『世論』

ステレオタイプの特徴を堤未果はこう整理する。①都合よく強化される、②見慣れないものは排除される、③理性的でなく情緒的。まさにコロナへの反応であり、サッカーワールドカップへの反応が思い起こされる。それほど、人々は低きに流れ、深く考えることを忌避する。

中立的なニュースというものは無いし、ニュースは真実とは別物である。それはあくまで事件の存在を知るための「合図」にすぎず、真実と同一視してはいけない。

世論はこのように疑似環境、イメージ、情緒、ステレオタイプによって形成される。つまり、「ひとりひとりの考えを集約した正しい意見」などではないのだ。

ということは、民主主義は可能なのだろうか?
ひとりひとりの考えを集約し、正しい結果を出すのが民主主義だとすると、それは疑似環境がつくったものにすぎず、イメージの総体であり、ステレオタイプの塊である可能性がある。だからこそ、リップマンは平和路線を参戦ムードへと一変させることができた。人々の思想を根本から変えたわけではなく、そこにある「イメージ」を変えただけだった。

『世論』の後半でリップマンはメディアリテラシーについて啓蒙している。メディアのメカニズムを知り、情報を鵜呑みにするのではなく、理性的に判断する。当たり前のことではあるものの、サッカーのような熱狂を前にするといつの間にか理性を失ってしまう。

"みんなの意見"はどこにあるのか?
それはみんなの心の中にある、とマンガの主人公のような台詞でまとめつつも、その心がステレオタイプに汚染されないように、理性をもって”みんなの意見”の裏側を探っていくしか無いのだろう。SNSでもサッカーでも世論に惑わされないように、いつも冷静な自分を持っておかなければならない。


この記事が参加している募集

#読書感想文

191,671件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?