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れきいし会で実際に街歩きしてみたin 東村山(中編/全3編)

 前回の記事に引き続きれきいし会で東村山を歩いた際の内容をご紹介します。前回までは土の下のレイヤーということで、地理と埋蔵文化財に関しての記事を書きましたが今回からは道路脇の石造物や寺院といった現存するレイヤーにも目を向けていきます。

前回の記事はこちら→


地表に現れるレイヤー

歴史のレイヤーは必ずしも土の下に隠れているものだけではありません。長い時の中で連綿と受け継がれながら、現代に残されたものもたくさん存在します。一番わかりやすいものでは道があります。ひとえに道と言っても古代から使われ続けて現代に残っている道もあれば江戸時代に街道として整備された道や、つい最近作られたバイパスのような新しい道もあります。そうした道が複雑に重なり合いながら今の地図を作り上げています。また古い道には古い道ならではの史跡も残されています。例えば、分かれ道などの辻には道祖神や庚申塔と行った道に関わる信仰の痕跡がしばしば見られます。こうした信仰のほとんどは江戸時代に流行ったものです。数百年にわたって地域の人々に大切にされながら現代まで残ってきたレイヤーの1つです。今回と次回後編ではこうした地表に残されたレイヤーを積極的に回っていきます。

川崎市の住宅街にある十字路。角地にお堂と庚申塔二基、出羽三山供養塔が残されている。この十字路は古くから道として使われていたと考えられる。
上記のお堂の中の庚申塔。

7、廻田町の丘陵

さて、前回はA遺跡で縄文時代の遺物を見つけたところで終わりました。前回紹介した遺跡群は東村山の北西部にある多摩湖町に集中しています。そこから少し南に歩いた場所に広がっているのが廻田町です。廻田町は狭山丘陵に重なっているので、前回紹介した下宅部遺跡やA遺跡からはちょっとした丘のように見えます。丘ということはつまり前回紹介した通り遺跡が存在しています。縄文時代から中世に人々が暮らした中の割遺跡が丘陵の南斜面を覆っているほか、江戸時代には新田として開墾されたので石造物も多く残されています。中編ではこの廻田町を中心に歩いていきます。

8、出羽三山供養塔と馬頭観世音碑Ⅰ

廻田町で一番最初に訪れたのは二つの石造物です。一つは出羽三山供養塔、もう一つは馬頭観世音碑です。

廻田町の住宅街に立つ馬頭観世音(手前)と出羽三山供養塔(奥)

出羽三山供養塔とは山形県にある信仰の山「出羽三山」に参拝したことを記念して建てられたものです。基本的には「羽黒山、湯殿山、月山」と三つの山の名前が記載された文字塔であることが多いです。残念ながらこの石碑には年代等の記録がないため、いつ頃立てられたのかは正確にはわかりませんが、形式などから考えて江戸時代の後期ごろの建立と考えていいでしょう。江戸時代にはもちろん電車などの交通手段はありませんから、徒歩または馬で参拝したわけです。直線距離で340kmほど、道のりに換算するともっと長い距離を歩くことになります。電車や車での生活に慣れた私たちから見ればこれだけの距離を徒歩で移動したというのは本当に驚きです。

出羽三山供養塔の正面。写真では見えにくいが、それぞれの山の本地仏の梵字「アーンク」「キリーク」「サク」とそれぞれの山の名称が彫られている

さてもう1基の馬頭観世音碑にも注目してみましょう。馬頭観音碑はざっくり説明すると馬が亡くなった際に供養のために立てられる供養碑です。観世音の図像を浮き彫りにしたものや文字塔などいろいろな形式のものが存在します。今回のものは三面六臂(顔が三つあり、腕が6本)の馬頭観世音が浮き彫りに造形されたもので、寛政六年(1794年)江戸時代後期の造立です。また、よく見ると馬頭観世音の上には「奉納湯殿山」「坂東三十三所、西国三十三所、秩父三十四所」と書かれています。湯殿山は先ほど述べたように出羽三山に数えられる山の一つで江戸時代には出羽三山の中心的な聖地として考えられてきました。また「坂東三十三所、西國三十三所、秩父三十四所」は関東や関西、秩父のお寺百ヶ所をめぐる百所巡礼を表したもので、これも長い距離を歩かなければならない巡礼です。つまり、この馬頭観世音碑は馬の供養と巡礼供養を兼ね備えた石碑と言えるでしょう。もしかしたらこの馬頭観世音に供養されている馬は巡礼の足として各地を歩いたのかもしれません。

馬頭観世音碑の上部。「奉納湯殿山」や「坂東三十三所、西國三十三所、秩父三十四所」と書かれている。また、観世音の頭部には馬の頭の形が彫刻されているのがわかる。
それぞれの石碑の銘文(「東村山の石仏と信仰」小林太郎著、昭和56年より)

今回の旅では偶然にも石碑の管理者の方に現地でお会いすることができました。お話を伺うと元々はこの場所も管理者の方のお屋敷の敷地だったそうで、石碑は家の敷地内に建てられていたとのこと。「大変ご利益のあるものなので大切にしろ」と言われたとのことで今でも日々お掃除やお水のお供えをおこなってることをお話しいただきました。私たちが石造物に出会えるのもこうした管理者の方の日々のお世話の賜物です。感謝の思いでお話をお伺いしました。そうしてお話をお伺いしていたところ、ここのよりももっと位の高い馬頭観世音が近くにあるとのことで急遽ご案内いただけることになりました。

9、もう一つの馬頭観世音

数分歩いたところにもうひとつ馬頭観世音があるとのことで、先ほどの管理者の方にご案内いただくと、地蔵尊と馬頭観世音が置かれた祠に到着。馬頭観世音は先ほどとは打って変わっての文字で「馬頭観世音」と書かれた文字碑で明治27年(1894年)のものです。地蔵尊は合掌した立像で袈裟や帽子がかけられていることからも今でもかなり大切にされている様子が見てとれます。

ご案内いただいた馬頭観世音碑と地蔵尊

ご案内いただいた先ほどの管理者の方曰くですが、こちらの馬頭観世音は昭和のいつ頃かまだ貯水地(狭山湖や山口湖のことと推測)を作っていた頃のお昼時にこの一帯の家を焼く大火があったそうで、その大火に際して供養のために建てられたのだそう。もしかしたらその火事で亡くなったお馬さんを供養しているのではとのこと。こちらの馬頭観世音さんは以前は白装束の行者さんやお坊さんなどが供養に来ていたようで、先ほどの出羽三山供養塔や馬頭観世音よりも位が高いのではとおっしゃっていました。大火等の情報は詳しくは調べられていないですが、急遽始まったフィールドワークに参加した三名共々これはかなり重要な話だぞと色々とお伺いしてしまいました。お話いただいた方には頭が上がりません。街を歩くことの醍醐味はこうした唐突の出会いなのかもしれません。

10、出羽三山供養塔と馬頭観世音碑Ⅱ

実はこの廻田町にはもう一つ出羽三山供養塔が存在していますので次はそこに向かいます。急な坂を登って廻田町の起伏を超えた先にその出羽三山塔はあります。

三叉路の辻に立てられた出羽三山供養塔(左)と馬頭観世音(右)馬頭観世音は弘化三年(1846年)で出羽三山供養塔よりも後の建立。

東村山に存在する出羽三山信仰関連石造物は4つありますが、その中でも最も規模がでかいものです。形は上部が山状に尖った角柱型で二段の台座があります。二段の台座にはそれぞれ建立に関わった集落や人名が4面に渡って刻まれています。立てられた年代は文化八年(1811年)で、こちらも江戸時代後期の建立です。出羽三山信仰含めて多くの山岳信仰に関する石造物は江戸時代後期ごろに急激に増えます。先ほど見た湯殿山の銘が残る馬頭観世音含め東村山の出羽三山信仰もこの江戸時代後期に集中して行われていたようです。

出羽三山塔のアップ。三山の名前のほか、荒澤大聖不動明王(羽黒山の奥の院荒澤寺に祀られる不動明王)の名前などが深い彫りで刻まれている。
出羽三山塔の銘文(「東村山の石仏と信仰」小林太郎著、昭和56年より)

この碑で注目すべきなのは台座に残された「小川村錫杖連中」に関する記述です。この台座には小川村錫杖連中のメンバー14人の名前が刻まれたいますが、現小平市の小川村に残された出羽三山供養塔(文化十四年)の台座にも同じように「小川村錫杖連中」の記述があります。これら二基の三山碑は建立時期も非常に近く五年しか差がありません。二基の石碑の建立の経緯には当時何かしらの関係性があったと考えられます。小川村と廻田は比較的距離が離れていますが、昔はより近い関係性であったことが想像できます。

台座二段目に小川村錫杖連中の記述が見て取れる。一段目は剥離が激しいが人物名の一部が残っていることから二段目同様に4面にわたって人物名が刻まれていたことだろう。
小川寺境内に残された小川村の出羽三山供養塔(文化十四年)。台座に錫杖連中と書かれているほか、廻田村や久米川村といった東村山の村々の名称も見て取れる。そのほか小金井村など比較的広い地域から出資がなされており、当時としてはかなり規模の大きな信仰集団だったことが窺える。東村山のものと比較しても規模や形態が酷似しており何かしら二つの碑が関係して建てられている可能性が高い。

11、廻田公民館

さて、次に訪れたのは廻田町にある公民館です。この公民館には廻田町の丘陵を広く覆っている中の割遺跡の出土品や発掘当時の遺構の写真が展示されています。非常に小さな展示ですがガラスケースの中に入っている石器や土器を間近でみることができるので、もしお近くにお寄りの際はぜひ足を運んでみてください。ちなみにここでは発掘で見つかった板碑の破片も展示されています。

外見は至って普通の公民館
エントランスの一角に出土品を展示したコーナーがあり、中の割遺跡の出土品や発掘調査当時の写真などが展示されている。
中の割遺跡出土の板碑片

12、道端で見つけたものたち

さて程々にお腹が空いてきたのでお昼ご飯を食べるためにお店に向かいます。お店に行く道中にも名もなき様々なものがありましたので、それを紹介。まずは屋敷神です。屋敷神は住宅の敷地などに建てられた小さな神社や祠のことです。元は祖先信仰に起源を持つとも言われていますが、現在は赤い鳥居のお稲荷さんなどが多くみられます。東村山を歩いていると至る所で屋敷神を見かけます。

アパートの敷地に残された屋敷神。左はお稲荷さんだが右は石製の祠で何が祀られてるかはっきりしない。

もう一つ見つけたのは井戸の跡と思われるこちらの遺構です。駐車場の隅にひっそりと佇んでいますが、トタン板で家のような形が作られています。多分下のコンクリートは井戸の跡なので何かを祀るという思いでこのような小屋を立てているのかなと予測します。詳細は不明ですが、不思議なオブジェクトです。

井戸の跡と思われるコンクリートの上に立てられた謎の小屋。zinbeiさんが中を覗いていましたが暗くて中身の様子はわからなかったとのこと。

このような感じでまだまだ不思議な出会いがたくさんありました。街を歩くというのは決められたスポットを巡るだけでは体感できない偶然の出会いがあるものです。ただ歩く道もこうしたものを探しながら歩くだけで全然違った楽しみ方ができます。

宗教施設の外壁に残された日焼けした看板に書かれた謎の落書き。
立ちションを禁止する案内に書き添えられた鳥居

13、手打ちそばうどん 㐂作 

さてお昼ご飯の時間です。前回の記事でも紹介しましたが東村山は畑作が多い地域です。昔からお米よりも麦や芋といった畑で育つものが中心に食べられてきました。その名残として東村山ではうどんが名物として知られています。いわゆる武蔵野うどんというものです。武蔵野うどんは武蔵野台地上の様々な地域に分布しており、地域やお店によって様々な個性があります。東村山にもうどん屋さんがたくさんあります。今回はその一つ、手打ちそばうどん 㐂作さんにやってきました。

かとうさんと宮野が頼んだ肉汁うどん
zinbeiさんが頼んだ狭山うどん。狭山うどんは夏季限定。

私のおすすめは肉汁うどんです。武蔵野うどんといえば豚肉の入った温かい漬け汁にうどんをつけて食べる肉汁うどんが有名です。武蔵野うどんの名前を掲げている市内のうどん屋さんには必ずあるメニューで、武蔵野うどんといえば肉汁うどんと言っても過言ではないほどよく食べられているメニューです。うどんはコシが強い讃岐うどんなどに比べるとかなり柔らかめのうどんで、お店によって太さや麺の色にも差があります。東村山にお越しの際はいろんなお店に入って食べ比べをしてみるのもおすすめです。

別日に東村山駅前のますも庵さんで食べた肉汁うどん。麺が茶色く太いのが特徴。

中編まとめ

さて、やっと午前の部が終わりました。前編に比べると石造物などの見やすいスポットが多めの回でした。土地をあるき土地の風景を確かめながらその土地の人に出会いその土地のものを食べる。まさにこれこそ街歩きの醍醐味です。ここまででも十分に情報量の多い旅になりつつありますが、この後もまだまだ続きます。次回をお楽しみに。

参考書籍

  • 『東村山ふるさと昔語り』、平成19年4月、発行:東村山郷土研究会

  • 『東村山の石仏と信仰』、昭和57年5月、著者:小林太郎、発行:多摩石仏の会

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