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れきいし会で実際に街歩きしてみたin 東村山(前編/全3編)

前回に引き続きとなりますが街歩きについての記事を書いていこうと思います。今回は実習というか、実際に歩いた話をします。ということで「れきいし会」で東村山を歩いてきましたので、そのレポートになります!
内容としては、れきいしに限らず遺跡、寺社仏閣、街道さまざまなものを一緒くたに詰め込んだ特大ツアーを開催しました。その内容を3編に分けて投稿していきます。


東村山とはどんな場所か

早速ですが、東村山という土地全体から確認してみましょう。東村山市は東京都の多摩北部にある街です。北は埼玉県と隣接し、西は東大和市、南は小平市、東は清瀬市と東久留米市に隣接しています。

西側には多摩湖(人工の湖)や狭山湖のある狭山丘陵があり、非常に緑豊かな街です。郊外として宅地開発も進んでいる一方で、田畑や森林も多く残っており、昔ながらの風景と開発された現代の風景の両方がバランスよく混在してる場所といえます。そのため、東村山にはさまざまな時代のレイヤーがふんだんに残されています。歩けばさまざまな場所でさまざまな時代の痕跡に出会えます。まさに前回書いた文章のような歩き方するにはもってこいの場所です。そして、筆者宮野祐の出身地でもあります。子供の頃から歩き倒してますので、今回れきいし会のメンバーに紹介するにはもってこいの場所だと感じツアーをすることにしました。

東村山の高低差

もう少し東村山について細かく地理的な条件を見ていこうと思います。人が住む以前に土地にはその土地の特性があります。河川があるか、土地に高低差があるか、そうしたさまざまな条件は人が住みやすいかどうかに関わってきます。そうした条件をまずは地図から読み取ってみましょう。

出典:国土地理院(https://www.gsi.go.jp/)

ここに挙げた起伏図は東京都近辺の起伏を見やすくしたものです。東京のほぼ全域が武蔵野台地という平坦な台地によって覆われていることがよく分かります。この武蔵野台地は多摩川が青梅あたりを起点に北や南へ流れを変えたことでできたものです。今現在は多摩川はこの台地の南端を流れていますが、かつては埼玉県や東京の真ん中を流れていた時期もあったと考えられています。そうした河川の運動の中で、長い時間をかけて平坦な台地が形成されました。いわゆる扇状地と呼ばれるものです。ただ、よく見ると、この台地には河川に削られずに残った浮島のような場所が見て取れます。それが狭山丘陵です。

上記と同じ場所に路線などの地図を重ねたもの。出典:国土地理院(https://www.gsi.go.jp/)
狭山丘陵の起伏図。土地の隆起とともに河川などの溝も見てとれる。
出典:国土地理院(https://www.gsi.go.jp/)

狭山丘陵は多摩川の活動から切り離された非常に起伏の多い場所になっています。この起伏を利用して狭山湖や多摩湖といった人工湖が大正〜昭和に作られました。東村山はこの狭山丘陵の一番東の端に位置しています。

起伏の多い場所、河川の多い場所には遺跡がある

これは前回の記事でも少し紹介した内容になりますが、起伏の多い場所に遺跡が密集していることがあります。東村山の場合は、ほぼ中央に位置する東村山駅から北西側の丘陵や河川が密集する地域に主要な遺跡が集中しています。軽くあげるだけでも、下宅部遺跡、宅部山遺跡、鍛冶谷ツ遺跡、日向北遺跡、中の割遺跡、正福寺遺跡、弁天池北遺跡など、多くの遺跡が見つかっています。起伏のある土地に遺跡が集中する理由としてはまずは河川との関係が挙げられます。
どんな時代でも水の確保は重要な問題です。一番水が手に入りやすい場所は川の近辺になりますが、川のすぐ近くは洪水などの災害のさらされる危険性があります。そのため、河川のすぐ近くではなく少し離れた丘陵や台地といった高台上に居住地を形成した方が安全です。また、狩猟採集の時代においては高台の上の方が見渡しが良く獲物の位置や自分達の位置を把握するのにも有利になります。それだけでなく、高台は遮るものが少なく日当たりも良く暮らしやすい条件が整っているわけです。そうしたことから多くの遺跡は河川または湧水の近くの高台や丘陵上に集中します。さて、もう一度視点を狭山丘陵に戻すと河川も多く起伏も多い土地柄で、縄文人や古代人が生活する場としては非常に好条件に思えます。
逆に言えば河川などが少ない地域は昔から人が暮らすのが困難な地域です。場所にもよりますが、近代の水路の整備によってやっとのことで人が暮らせるようになる地域もあります。(東村山の近辺だと小平市の小川村など)

小川村に残る小川寺。江戸時代に玉川上水からの分水を許可されて、青梅街道沿いの馬継ぎ場として開かれた村。それまでの青梅街道は田無(西東京市)から箱根ヶ崎(瑞穂町)まで馬を休ませたり寝泊まりしたりする場所がなく非常に過酷な道だった。古くから近辺に主要な河川がなく人の生活の痕跡が少ない地域。

このようにもともと土地に何があるかによってその土地の歴史は大きく変わります。歴史のレイヤーの背景にはその場所の土地柄が大きく関わってきます。

土の中に埋没したレイヤーを歩く

ということで、ここまでは歩く前に前提条件として東村山の土地柄を見てきました。覚えておいてほしいのは今回のルートは武蔵野台地の上にあるということと、起伏が多く河川が集中している地域ということの2点です。やっとここから実際に歩いてみるパートになります。今回の参加者はかとうゆずかさんとzinbeiさん、解説役の私の三名です。スタート地点は西武線西武園駅。ルートは西武園駅から多くの史跡を回りながら東村山駅まで歩くルートになっています。前編ではその冒頭部分、埋蔵文化財についての解説をメインにしていきます。

1、西武園駅前

早速ですが、駅の南口を出ると駅前の道が坂になっていることに気がつきます。西武園駅は狭山丘陵の一部分を削り込むような形で作られた駅で、この場所も狭山丘陵の一部となっています。そして、丘陵の上ということは…そう、この場所も実は遺跡なんです。この駅前の一帯は宅部山遺跡(やけべやま)と呼ばれており、とても重要なものが出土した遺跡になります。

東京国立博物館平成館考古学展示室に展示される瓦塔(がとう)

出土したのがこの写真の遺物です。これは瓦塔(がとう)と呼ばれるもので日本全国のさまざまな場所で見つかっている陶製の五重塔になります。時代は奈良時代。実物は東京国立博物館(以下トーハク)の平成館考古学展示室で常設展示されています。まさにこのトーハクに展示されている瓦塔が出土した遺跡がこの宅部山遺跡なのです。駅から降りた場所が早速遺跡だなんて驚きです。

今回ツアーでは行ってませんが、出土地点には案内板も立てられています。
案内板上面。

東村山から南に8kmほど離れた場所には武蔵国府がありますが、武蔵国府関連史跡でも瓦塔は出土しており、国府や律令制のはじまりとこの東村山地域の関係性を考える上で非常に貴重な資料です。仏教が普及し始めて間もない時代にお堂ではなくミニチュアの五重塔を作り広めることで仏教を根付かせようとしたのでしょうか。この瓦塔は初めて全体像がわかる資料として発表されたため、瓦塔の典型として広く知られているのだそう。今回のツアーではいっていないですが、駅からすぐのところには出土地点の案内板が立てられています。

2、下宅部遺跡はっけんの森

さて、次のスポットも遺跡になります。この遺跡は東村山では非常に良く知られた遺跡になります。読み方が難しいのですが下宅部と書いて「しもやけべ」と読みます。

文化財好きなら必ず写真を撮る案内板!!
下宅部遺跡の地図。縄文時代と古墳時代以降の二つの地図が載せられている。

案内板にもありますがこの遺跡は「低湿地遺跡」という種類の遺跡です。縄文時代や古代の河川がほぼそのまま埋没した遺跡で、地下水が豊富なことから木材などの有機物がほぼそのままの状態で出土した遺跡になります。日本の土壌は酸性で微生物も多いのでほとんどの有機物は分解されて土に戻ってしまいます。ですが、ここではそのほとんどが分解されずに残っていました。他の遺跡と違い住居の跡などはほとんど出土していませんが、縄文時代や古代にどのように河川が利用されていたかが非常に良くわかる遺跡なのです。
その中でも最も重要な発見は縄文時代の漆利用に関する資料です。特に漆の木から樹液を採集した跡が残る材木は日本で初めて確認され、縄文人がどのように漆を採集していたのかが明らかとなりました。そのほかにも漆によって着彩された飾り弓や木彫、漆細工が出土しています。これらの漆に関連する資料は2020年に国の重要文化財に指定されています。
そのほかには川の流れを堰き止めて利用した水場遺構や、丸木舟の未完成品などの木材加工場の跡など豊富な資料が出土しています。その数なんと30万点以上。その多くは近くの八国山たいけんの里で展示されています。

現在の下宅部遺跡は遺跡公園として一部が保存されている。(かとうさん撮影)

3、八国山

さて次は下宅部遺跡の出土品を実際に観に行きます。ですがその前に少しだけ狭山丘陵の一部を見ていきましょう。狭山丘陵の東端は八国山と呼ばれ、今は都立公園になっています。こうした森林は江戸時代以降の雑木林のある生活文化を現代に伝えるとともに多くの動植物の生息域にもなっています。もちろん多くの遺跡も残されており、鎌倉時代に新田義貞が陣を置いた将軍塚などが山中に残されています。ちなみに名前の由来となった八国とは山頂から上野、下野、常陸、安房、相模、駿河、信濃、甲斐の八国の山が見渡せたことが由来なんだとか。のどかな風景ですね。

かとうさん撮影

4、八国山たいけんの里

さて、少しだけ八国山を歩くと黒い建物が見えてきます。ここが下宅部遺跡の出土品を展示している八国山たいけんの里です。

八国山たいけんの里

ぜひこのnoteでも展示品を見ていただきたかったのですが、展示品の写真は別途許可が必要とのことなので、ぜひ現地に足を運んでいただければと思います。実際の縄文時代の漆細工は圧倒的でこれを石器のみで製作しているのかと考えるとなかなか現代では真似できないものがあるなと感じました。休日の日中にはボランティアさんによる解説も行われているようです。

下宅部遺跡の出土品を展示している展示スペース(一応許可を得て掲載)
土器作りなどが体験できる体験スペース(一応許可を得て掲載)

文章で書ける部分でおすすめの展示物を紹介しておくと、先ほども書いた傷跡の残る漆の杭と飾り弓、漆塗りの杓子柄のほか、漆を接着剤として利用した土器なども見所です。古代の資料では、冒頭に説明した瓦塔の破片が実はここ下宅部でも出土していますので是非みてみてください。しかもトーハクに展示されているものと同一の個体です。宅部山にあった瓦塔がこわれたあと、その破片をわざわざ下宅部まで運んだ可能性が高いと考えられています。破片ですが、こちらも実物が展示されています。

5、田畑の風景を見る

さて、ここからまた別の遺跡に向かうのですが、その道中の景色にも注目してみましょう。東村山にはいまだに多くの田畑が残されています。よくみていくとそのほとんどは畑作で田んぼはほとんど見当たりません。ちょうど歩いた時期は栗の花が咲き始めた頃でしたが、栗や果物、里芋、さつま芋などそのほとんどは畑で栽培可能なものに絞られています。かとうさん曰くですが、青梅も畑作がおおく東村山と酷似しているのだとおっしゃっていました。これには先ほど紹介した武蔵野台地が大きく関わっています。
武蔵野台地では多摩川が運んだ土砂の上に関東ローム層という火山灰を主成分とした地層が重なっています。多摩川が運んだ土砂は厚い砂礫層を形成しており、武蔵野台地上では水が地下深くに浸透しやすいです。つまりは水が地表たまらないので巨大な深い井戸を掘ったり、既にある水源に頼るしか方法がないのです。一応、河川周辺に少しですが田んぼは存在しています。ただそれもあまり多くの面積は確保できないため、畑作が中心の農業が発展しました。

羽村駅の目の前に残る「まいまいず井戸」
武蔵野台地の砂礫層地帯に井戸を設けなければならないため
このような深い穴を持つ形状になった。
降りるための通路がカタツムリに似ていることからこの名称がついた。
府中市郷土の森博物館に復元されたまいまいず井戸。
平安時代の大井戸の遺構をもとに復元したもの。

そのためか、全国で稲作が行われ始め、米の食文化が始まる弥生時代になると東村山市内の遺跡は激減します。予想にはなりますが、多くの人々は稲作が可能な土地に移動したのだと思われます。また、近代になっても東村山は畑作が基本であり、養蚕用の桑畑や芋、小麦などがメインに育てられていたようです。食事も芋や小麦が中心の生活でした。東村山周辺には武蔵野うどんという名物がありますが、これも稲作ができない地域ならではの名物と言えます。このように土地の条件によって、その地域の食文化も大きく変わります。ぜひみなさんも街を歩いてみる際はその地域で何が栽培されているのか、なぜそれが育てられてるのか考えてみると見えないレイヤーに迫れるかもしれません。

歩いている途中にあった栗畑。そのほかにはブルーベリーの畑や里芋など目撃した。
(zinbeiさん撮影)

6、A遺跡

さて次の目的地で前編は最後になります。次も遺跡ですが、案内板もなければ知ってる人でないとそもそも気づかない遺跡です。住宅街を抜けてとある畑にやってきました。名前は特定されないよう今回はA遺跡としておきます。このA遺跡は縄文時代後期や奈良時代の遺物が多く見つかっている遺跡になります。下宅部遺跡からも近く、存在していた時期も近いことから、下宅部を水場として利用していた集落の一つだと考えられている遺跡です。この遺跡は実はあまり保存状態がよくなく、畑を見渡すと至る所に遺物が露出しています。

畑に露出する縄文土器の破片

「こんな身近に縄文土器が!」と思われる方もいるかと思いますが、意外と遺跡を歩いているとよくあることです。ただ、注意していただきたいのはやはり文化財ですので、こういったものはむやみに拾ってはいけないということです。見つけてもそっとしておきましょう。
ただ、こうした場所に来て実際に遺物が転がっている状況を見ると、遺跡が地中深くの見えない何かではなく、身近にある地続きなこととして捉えやすくなると思います。なので今回はわざとツアーにいれました。整備された遺跡公園とか歩いてもなかなかその地中で起きていることは想像できにくいですよね。実際はこういう形で私たちの身近に遺跡のレイヤーは存在しているのです。(※A遺跡の所在地は盗難等の発生を防ぐため今回は詳細を省きます。)

今回はなんと石鏃も見つけました。

前編まとめ

さて、今回は土壌であったり、地中の遺跡だったりとなかなか目には見えにくいレイヤーを扱ってきました。普段は意識できにくいレイヤーですが地元の歴史館や資料館ではこうしたレイヤーについても積極的に紹介してくれると思いますので、ぜひ地元の施設を訪れてみてください。意外と自分の身近なところに見えない歴史のレイヤーが潜んでいるかもしれません。次回中編からは石造物や街道などもう少し普段から意識しやすいレイヤーへスポットを当てていくつもりです。ぜひ次回もお楽しみに。

参考書籍(※はたいけんの里、歴史館で購入できます)

  • ※『〜狭山丘陵からみた古代の東村山〜瓦塔の立つ風景』、平成23年10月、編集・発行:東村山ふるさと歴史館

  • 『縄文の漆の里ー下宅部遺跡』(シリーズ「遺跡を学ぶ」062)、2009年10月、著:千葉敏朗、https://www.shinsensha.com/books/347/

  • 『東村山ふるさと昔語り』、平成19年4月、発行:東村山郷土研究会


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