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「江戸の芸能」を継承する若者のほろ苦い笑い:『の・ようなもの』/映画の中の東京②


※以下の文章、ネタバレ注意※



 落語は基本的には「江戸」の芸能である。昨今は前の時代ほどではないにせよ、地方出身者は言葉のなまりを江戸言葉に直すのに苦労したという。『笑点』で三遊亭小遊三(山梨県大月市出身)と林家たい平(埼玉県秩父市出身)が「どっちが田舎者か」という舌戦を繰り返しているが、故郷への愛情と江戸東京への憧れが根底にあるのかもしれない。
 現在の東京(都)と、かつての「江戸」は全くのイコールではないが、東京が江戸の文化を継承しようする土地であることは間違いないし、落語もそうした「江戸からの文化」のうちに含まれているだろう。『の・ようなもの』には落語という、江戸から紡いだ文化の温かみと、現代の東京という街の土地柄が人間味をもって交差していく。

 やや垢抜けないが、屈託のない爽やかさを持った、駆け出しの二つ目の落語家・志ん魚(しんとと/伊藤克信)は、当時中東の国名で呼ばれていたソープ嬢のエリザベス(秋吉久美子)と恋仲になる。「性風俗」というものが登場するとネガティブな印象、そうでなくとも少し陰りのあるイメージを抱く人もいるかもしれないが、本作のエリザベスはそうしたものと全く無縁だ。クールに英語のペーパーバックを読みつつも、“姐さん彼女”として年下の志ん魚を可愛がる、非常に快活で小粋な女性として描かれている。
 『紺屋高尾』の高尾をはじめ、多くの古典落語には、花魁や廓の世界ではつらつと生きる女性が登場する。色気(「セクシーさ」という意味だけでなく)たっぷりに物語を引っ張っていくエリザベスの姿は、落語に登場するそうした女性像に近いものがある。
 江戸時代から現代にいたるまで、廓や風俗の暗い側面はいつの時代も多少なりともあったと考えられるが、それでも血の通った男女のことなのだ。傍観しているこちらまでぬくもりを感じられるような、あたたかな人間関係がそこにあっても決して不思議なことではない。そしてこれは『紺屋高尾』の時代から現代まで、普遍的なことだろう。


 あたたかい部分を書いたので、志ん魚が現実を突き付けられるシーンの話も書く。もちろん森田芳光が監督したコメディ映画なのだから、全くもって冷酷で人間味の無いシーンになるようなことは無いのだが。
 恋愛とまでいかずとも、女子高生の由美(麻生えりか)と仲良くなった志ん魚は、彼女の実家に招かれる。彼女の父親の前で『二十四孝』を披露する。

 由美の父:「なってないねえ。志ん朝や談志に比べると随分下手だよ」
 志ん魚 :「まだ、二つ目ですから。あの人たちは真打だし、キャリアが違いますから」
 由美の父:「齢、いくつ」
 志ん魚 :「23になります」
 由美の父:「その時には、志ん朝や談志はもっとうまかったよ」

 志ん魚に厳しいことを言う、由美の父は将棋棋士でタレント活動をしていた芹沢博文だが、彼のニックネームは”芹沢名人”であった。おそらく芹沢が名前を挙げた志ん朝や談志には“名人”という暗喩があるのだろう。しかも芹沢は名人戦でタイトルを得たわけではないので、将棋界の正式な「名人」では無い。「仮の名人」が落語の「名人」を論じるという、森田作品らしいユーモアなのかもしれない。
 そして由美にも同じことを言われる。「父さんの言う通りよ。志ん魚さん下手よ」と。恋愛映画なら一番悲しく残酷なのは、肉体的なの死や殺人より、失恋したり恋が成就しないことだ。そしてこれを落語の映画に当てはめれば、「落語が下手」と言われることだ。
 「君は名人には程遠い」。暗にそう言われた志ん魚は夜の明けていく東京をとぼとぼ歩く。しかしショックを隠し切れないながらも、歩みを進めていく志ん魚には、悲しみよりペーソス、それ以上におかしみがある。

 

 エリザベスとも別れ、落語が下手と言われた傷心の志ん魚。兄弟子の志ん米(しんまい/尾藤イサオ)の真打昇進のパーティが華々しく行われるビアガーデンの片隅で、夜風を受けながら、弟弟子に「早く真打になりたい」とつぶやく。
 落語の持つ江戸の快活さ、東京の街のひややかさ。高座に青春をかける若者はその間で喜怒哀楽を浮かべる。恋に敗れ、落語もまだまだ未熟という意味では、バッドエンドの映画かもしれない。だからと言って、わんわん泣かせたり、心から落ち込むような”サゲ”ではない。ほろ苦い悲しみのなかにも、目尻が自然と下がるような後味がある。
 この映画は「爆笑」の映画ではない。しかし感情の豊かさで、そうした映画と負けることはない。そしてこの「爆笑ではない」テイストは、案外東京ならではのものかもしれない。

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