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7,000年前からわたしたちはヒスイと暮らしてきた|学芸員小池の縄文コラム #2

こんにちは!美山プロジェクトの小池です。

前回は、美山デイアウト&縄文キャンプの開催地、美山のある糸魚川市がどんなところかということを、民俗文化財の視点からお話ししました。

今回は、糸魚川市の遺跡にスポットを当てて、糸魚川独特の文化をお話ししていきたいと思います。

古代人が住んでいた場所が今もそのまま生活拠点に

糸魚川市には現在、279カ所の周知の埋蔵文化財包蔵地(いわゆる遺跡)が見つかっています。平成28年度の文化庁の報告によれば全国の遺跡の数は約46万カ所と記されています。

そう考えると、「糸魚川市の約279カ所って少なくない...?」と思われるかもしれません。

これには、糸魚川市の地形が大きく関係しています。

前回の糸魚川市の紹介のなかでもお話しした通り、市の面積は746.24平方メートほどあるにも関わらず、人の住んでいる宅地は1%程度です。糸魚川は山林が多い地形で、海岸線に近い平地や、青海川、姫川、海川、早川、能生川などの河川の働きによって造り出されて段丘状に人々が生活しています。

この居住域は古代にさかのぼっても大きな変化はなく、糸魚川に人が定住するようになってから、多少の移動はあるにしてもほぼ同じ場所に生活の拠点を持ち街が発展してきました。そのため、市街地では、非常に密な遺跡の分布が確認されています。

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糸魚川地域の遺跡の分布状況

ひとつの遺跡で複数の時代が埋まっている箇所も多くありますが、各時代ごとに見ると旧石器時代が3カ所、縄文時代が108カ所、弥生時代が10カ所、古墳時代が19カ所、古代(飛鳥時代〜平安時代)が66カ所、中世(鎌倉時代〜戦国時代)が75カ所、近世が12カ所と縄文時代と中世の遺跡が多いことがわかります。

北は北海道、南は鹿児島県まで広まった糸魚川のヒスイ

ここからは、前回の最後で触れた独自のヒスイ文化について時代を追いながらお話していきます。

人とヒスイの出会いは、今から約7,000年前の縄文時代前期にさかのぼります。最も古いヒスイの利用例は青海地域の大角地(おがくち)遺跡で見つかった敲石(たたきいし)です。装飾品のイメージの強いヒスイですが、古くは石を加工するための道具として利用がされていたのです。

縄文時代中期(約5,000年前)頃になると長者ヶ原遺跡などで、ヒスイの大珠(たいしゅ)と呼ばれる装飾品が作られ始めます。

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長者ヶ原遺跡出土ヒスイ製大珠

糸魚川で作られたヒスイ製大珠は東日本を中心とした各地に流通します。長野県の諏訪湖周辺や関東平野、茨城県那珂川の流域、青森県。これらの地域には、ヒスイの出土した遺跡が多く分布しています。

遠いところでは、北は北海道の利尻島、南は鹿児島県の種子島からも糸魚川産のヒスイが出土しています。

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縄文時代中期・後期のヒスイ分布状況

縄文時代晩期(約3,000年前)頃の糸魚川では、青海地域の寺地遺跡で大規模な集落が営まれます。2013年に行われた発掘調査では、寺地遺跡のすぐ東側を流れる田海川の昔の河道から杉製の丸木舟の破片が見つかっています。

海での利用も考えられていますので、丸木舟を使ってヒスイが運搬されたことも想定されます。また、玉の形状も丸玉や勾玉など小型の玉が作られるようになり、使用される石材も多様化し緑の石を好んで使用していたようです。しかし、その中心になる玉の石材はやはりヒスイであったようです。

奈良時代には存在自体が忘れ去られてしまう?

弥生時代前半は、糸魚川では遺跡があまり見つかっておらず、まだわからない点も多くあります。弥生時代後半から古墳時代にかけては、今の市街地周辺で集落が営まれた痕跡が多く見つかっています。

糸魚川で古くから知られている笛吹田遺跡や、北陸新幹線建設に伴う工事で発掘調査が行われた南押上遺跡、姫御前遺跡などは弥生時代の後半から古墳時代中期にかけてヒスイや緑色凝灰岩、滑石を用いて勾玉などの玉類が製作されていました。

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弥生時代の玉造り

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古墳時代の玉造り

ここまで続いた糸魚川のヒスイの玉造りは、古墳時代中期(5世紀)頃にピタッと消えてしまいます。ここから、ヒスイの玉造りがどこで行われるかというと、今の奈良県にその痕跡が見られます。

奈良県橿原市の曽我遺跡では、5世紀後半から6世紀前半までの大規模な玉造の集落が見つかっています。

ヒスイ、滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶などの原石が遠方より持ち込まれ玉類が生産されていました。この背景には、ヤマト王権の存在があり、糸魚川にもその影響が届いていたことがわかります。

その後、しばらく続いていたヒスイの利用も奈良時代には終わりを告げます。その最後の利用例とされているのが奈良県奈良市の東大寺法華堂(三月堂)の不空羂索観音の宝冠に利用されている勾玉と言われています。それを最後にヒスイの国内利用はなくなり、糸魚川で産出することすら忘れ去られてしまいます。

相馬御風氏が掴んだヒスイ再発見の糸口

ヒスイ再発見の端緒を開いたのは、早稲田大学校歌を作詞したことでも知られる糸魚川の偉人、相馬御風(そうまぎょふう)氏と言われています。御風氏は文人としての活動のほかに糸魚川の歴史にも造詣があり、長者ヶ原にも足を運んでいました。

その頃、全国各地の遺跡で出土するヒスイはミャンマー産であるとされていたが、糸魚川の海岸で見られる丸くなった原石や、半製品、砥石などを見て、ヒスイミャンマー説に疑問を持っていたようです。

御風氏は、昭和13年の夏に知人で姫川支流大所川発電所の責任者をしていた鎌上竹雄氏に自分の考えを話し、ヒスイ探索を頼みました。鎌上氏は小滝村に住む親戚の伊藤栄蔵氏にその話を伝え、伊藤氏によって地元の川の探索が行われました。

そして、8月12日、伊藤氏の住む小滝村を流れる小滝川に注ぐ土倉沢で緑色の綺麗な石が発見されます。

昭和14年6月、この緑の石は鎌上氏の娘が勤務していた糸魚川病院の小林総一郎院長を通じて、院長の親類の東北大学理学部の河野義礼(かわのよしのり)先生へ送られました。河野先生の分析の結果、小滝川で見つかった緑色の石はヒスイであると科学的に証明されました。

同年7月には河野先生による現地調査が行われ、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが判明。11月には学術雑誌に掲載され糸魚川のヒスイは公の存在となりました。

しかし、ヒスイの存在はすぐには広まりませんでした。

考古学界で糸魚川のヒスイが知られるようになるのは論文発表後数年経ってからでした。また、ヒスイ再発見の端緒を開いた相馬御風氏は再発見について亡くなるまで一切触れていません。八幡一郎など有名な考古学者とも親交のあった御風氏ですが、ヒスイの再発見を誰かに伝えた記録は残っていません。

なぜ、御風氏がヒスイ再発見について触れなかったかは謎ですが、その当時は戦争が始まった頃でもあったため、当時の時代背景が関係していたのかもしれません。

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ヒスイ再発見まで<フォッサマグナミュージアムHP>

当時の暮らしの痕跡を保存し、受け継いでいる美山公園

そんな経緯で再発見されたヒスイは、小滝川硬玉産地は昭和31年、青海川硬玉産地は昭和32年に国天然記念物に指定され産地の保護がなされています。ま

た、指定範囲の外側で見つかったヒスイは盗掘を避けるために美山公園内にあるフォッサマグナミュージアムでレスキューが行われ、博物館内で保護・展示が行われています。

遺跡から見つかるヒスイは、埋蔵文化財として保護され長者ヶ原考古館で保護・展示が行われています。

今回は糸魚川の遺跡とヒスイ文化についてお話ししました。遺跡に関しては本当に入り口部分しかお話しできていません。

もっと詳しいことについてはぜひ10月31日、11月1日の美山デイアウト&縄文キャンプに来ていただき、長者ヶ原考古館にも足を運んでいただき学んでもらえると嬉しいです。

次回は、いよいよ美山デイアウト&縄文キャンプが行われる長者ヶ原遺跡についてお話しします!

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