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縄文時代から現代へ。長者ヶ原遺跡がいまの私たちに伝えるものとは?|学芸員小池の縄文コラム #3

こんにちは!美山プロジェクトの小池です。

いよいよ、明日に迫った美山デイアウト&縄文キャンプが開催される長者ヶ原遺跡をご紹介します。

集落の大きさは東京ドーム3つ分!?

長者ヶ原遺跡は、糸魚川駅や糸魚川市役所のある市街地から約1km南の美山の丘陵上に位置しています。

標高は約90mの小高い平坦地に集落が営まれていました。西にはヒスイが産出する小滝川を支流に持つ姫川が流れ、この姫川の下流右岸に形成された河岸段丘の最上面に位置します。

面積は約13.6haで東京ドーム3つ分ほどの広さです。長者ヶ原遺跡は今から約5,000年〜3,500年前頃の縄文時代中期中葉から後期初頭かけて集落が営まれていました。

コラム3図1

長者ヶ原遺跡の位置

長者ヶ原遺跡はその名の通り、古くから土器や石器が採集できるとして地元では知られていたのではないでしょうか。遺跡の存在が公になったのは明治30年に小学校の校長先生をしていた中川直賢(なおたか)氏が新聞に公表したことに始まります。

コラム2で登場した、相馬御風氏も遺跡に興味を持ち遺跡を踏査したり、中央の考古学者へその情報を伝えていたそうです。本格的な発掘調査は昭和29年に始まりました。その後、平成10年までに13回の調査が行われています。

昭和29年から33年の1〜3次調査の成果から昭和46年5月には、国史跡に指定され、昭和56年の4・5次調査で遺跡の範囲の拡大が認められ昭和60年に追加指定が行われています。平成3〜10年の6〜13次調査では史跡の内容把握の発掘調査が行われ、それまでの調査成果をもとに平成8〜12年にかけて保存整備工事が行われ現在の復元集落の形になりました。

調査で見えてきた長者ヶ原遺跡での暮らし

13回の発掘調査で遺跡全体の約3%、集落部分の約10%の調査が行われています。これまでの調査で出土した遺物はみかん箱換算で約3,000箱と膨大な量の土器・石器が見つかっています。遺構では竪穴建物が24棟、掘立柱建物が3棟、そのほか数多くの土坑や柱穴が見つかり当時の縄文人の生活の様子が見えてきました。

集落は南北約180m、東西約100mで集落の中央部分に広場、その周囲に墓域や掘立柱建物さらに食糧の貯蔵穴、竪穴建物があり、さらに外側に廃棄域のある環状集落という形態が確認されました。

コラム3図2

集落の構造

コラム3図3

遺跡全体の様子と発掘調査位置(白抜きの部分が発掘調査位置)

竪穴建物は250〜300棟ほど建っていたのではないかと推定されています。長い期間集落が営まれる中で何度も建替えが行われていたと思われ、発掘された24棟の竪穴建物も多くは重なり合って見つかっています。

一流の「ブランド品」の生産拠点でもあった

見つかった土器や石器の特徴をみていくと、まず土器は富山県や石川県で見つかる土器が多いことからこの地域は北陸の文化圏に入っていたようです。しかし、新潟県の中越地方に多くみられる火焔型土器や、長野県の遺跡で見つかる土器なども見つかることから、文化の合流点であったとか考えることが出来ます。

コラム3図4

長者ヶ原遺跡出土の土器

石器では糸魚川の河川や海岸でよくみることのできる蛇紋岩(じゃもんがん)や透閃石岩(とおせんせきがん)を用いた磨製石斧が特徴的です。この磨製石斧は縄文時代中期には長者ヶ原遺跡で大量に生産がされており、日本各地に送られていたようです。言うなれば、当時の一流ブランド品だったのです。

磨製石斧の製作は、海岸で扁平な原石を拾い、それをヒスイ製のハンマー(詳しくはコラム2で紹介)で形を整え、砂岩製の砥石で磨き形を整えていたようです。

また、磨製石斧を製作する技術とほぼ同じ工程で製作されていたのがヒスイの大珠です。

実際の形を見てもらうとわかりますが、磨製石斧と大珠はどちらもバチ型でよく似た形をしています。

コラム3図5

磨製石斧

コラム3図6

ヒスイ大珠

ヒスイの大珠も同じ工程で製作されたと考えられますが、ひとつ異なる点が最後に紐を通す穴を開けることです。遺跡からは穴を開ける途中の資料も見つかっています。その資料から、笹竹のような中が空洞のものが使われていたようです。しかし、当然植物ではヒスイに穴を開けることが出来ません。

ではどうしていたかというと、工程の最後で出てきた砂岩の砥石にヒントがあります。この砂岩には石英が含まれており、この石英がヒスイより若干硬いそうです。実際に石英の粉を研磨剤にヒスイに穴を開ける実験では時間はかかるものの確実に穴を開けることができるそうです。

コラム3図7

穴を開けている途中のヒスイ

これだけ手間のかかった長者ヶ原遺跡製の磨製石斧やヒスイの大珠はコラム2でもお話しした通り、日本各地の遺跡へ送られていました。逆に、糸魚川では採れない黒曜石や他の地域で作られた土器もこの長者ヶ原遺跡で見つかっています。

縄文時代から現代へ、一人ひとりが何を受け取るのか

縄文時代からこの地では他の地域との交流(クロスローカル)が盛んに行われていました。この美山がそれだけ、可能性を秘めている土地だという証ともいえるでしょう。

そうした過去の文化から、私たちが現代に活かすことができるようにーー

一人ひとりがこの土地と向き合うことで、得られる気付きがあるはずです。

明日、いよいよ美山デイアウト&縄文キャンプが開催されます。ぜひ、美山公園、長者ヶ原遺跡来ていただき、ここに暮らした縄文人の感じた自然を肌で体感してもらい、来ていだたいた皆さんで楽しい時間を共有できたら嬉しく思います。

スタッフ一同、多くの方のご来場を美山でお待ちしています。


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