ダメと言われて育った小さな私と向き合って
ダメと言われたことはなぜこんなにも記憶に残るのだろう。
それはダメ
間違えてはダメ
ダメなものはダメ
頭の中の普段は見えないところにこびりついていて時折思い出してしまう。すると今言われたかのように情景がよみがえって虚無感に支配され焦燥感に煽られる。
ダメな私…
いつからかそう思うようになってしまった。
でも、小さな私と向き合い癒してあげたことでダメなわけがない、自分は自分だからそのままでいい、そう思える揺るがない私と出会えた。
物心ついた頃から母はよく私にダメと言った。
服を選ぶとき。
宿題を観てもらうとき。
何かをしたいと言ったとき。
母はいつも自分が正しいと思っている。だから母がダメと言えばそれはダメだった。
生活の中では何をするに許可をとらないといけない気がしていた。でもダメと言われるのが嫌でなかなか聞けなかったから最初から諦めることが多くなった。
言わなくてもダメって顔に書いてある
どうせ何言ってもあの人はダメって言うんだ
常に顔色をうかがっていたし母に何かを相談しようとは全く思わなかった。大事なことはむしろ話したくなかった。
また私は本当に悲しいときなかなか泣けない。涙が溢れるのではなくて喉に何かが詰まるような思いがするばかりだった。
ダメと否定されるのが怖くて感情を抑えるようになってしまったからじゃないかと思っている。
感情に蓋をし見て見ぬふりをして成長した私は事あるごとに自分と周りと比べるようになる。自信がなくて周りの目ばかり気にしていた。
13歳、中学1年生。
大人ではないが全く子供でもない思春期真っ只中の独りよがりな私。
そんな自分を出産して子育てを始めてから頻繁に思い出すようになった。
子供に向かってダメと言いそうになって堪えたとき、また実際に言ってしまったとき、モヤっとした感情が湧き上がり、一瞬、13歳の私が姿を表す気がした。
同時に不安が押し寄せる。
こんな自分が母親でいいの?
まるで母のようなことをしている…
母を反面教師にしていた私にとって1番恐れていたこと。
このまま知らず知らずのうちに同じ道をだどらない為にまず13歳の私と向き合うべきなんじゃないか。
自然とそんな思いが湧き上がったのだった。
あくまでもイメージだけれど子供に声を掛けるように私は13歳の私に声をかけてみる。
あなたはあなたのままでいいよ
本が何より好きでいいよ
少ない友達を大事にしていけばいいし時折1人なことは恥ずかしいことじゃないよ
いつでも味方だよ
もちろんダメなんかじゃないよ
肯定する言葉をかけつつ今より10センチほど低い位置にある肩に右手を置き左手でそっと頭に触れて目を合わせて寄り添う。
これは私が母に最も望んでいたことである気がした。
13歳の私は笑った気がして私自身は気づいたら実際に泣いていた。
もしかしたら泣くのが怖かったのかもしれない。
感情が解放されて自然と涙が出たことでそんなふうに思った。
泣けないんじゃなくて本当はとても泣き虫な私。
でも、きっと、そのままでいいんだ。
自分と向き合えた私はその後どんなに小さな事でも子供たちなりの言い分はしっかりと聞いた上でいけないことは理由を含めて説明をしている。
ダメ、で片付けない為に。でも庭先で咲いた芝桜を眺めながら深呼吸すると身体の隅々まで春のあたたかな空気が行き渡り、ダメなんて口から出るわけがないと思えるほどに穏やかな気持ちになった。
春のうららかさに涙が出そうになる。はたまた花粉症だからなのか。
でももう些細な事で泣きそうになる自分を弱虫だなんて思わない。
受け止め抱えながら歩いて行ける自分に春の訪れと共に出会えたのだから。
♢
今回は私と母、そして小さな私について書いてみました。
インナーチャイルドという言葉を知ったのは数年前。
育児に悩んでいた私は子供の事ばかり調べていましたが真っ先に目を向けるのは自分だったというのが事の経緯です。
私個人のことでこの方法があってるのか定かではありませんが楽に泣けるようになったことは私の中でとても重要なことでした。
もっと広まってたくさんの悩む人たちが生きやすくなるといいなと思っています。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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