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「能力主義」という言葉の持つ魔力

 以前お話ししたエマニュエル・トッドの「大分断」の中でヤングの「メリトクラシー」について触れている部分があります。

「イギリスの社会学者マイケル・ヤングも予想していたように、教育の評価基準の特殊な点は、上層の人々の権力を驚くほど正当化してしまう点です。またそれは同時に、高等教育を受けなかった人々の自信を破壊してしまうものでもあります。そこでは頭の良さ、IQの差などで上層と下層に分断がなされます」

 この「高等教育を受けなかった人々の自信を破壊してしまう」について、言い換えているところがあります。

「高等教育の発展は、メリトクラシー、つまり能力主義のプロセスの中核にあるものです。能力主義の観念を生み出したイギリスの社会学者マイケル・ヤングは、それを非常に軽蔑的に見ていた人物です。教育によって人々が区分けされる世界では、実際に学業で失敗をした人々はそれを内面化し、自分は劣っている人間だという認識に至ってしまうからです。ですから学校教育の結果によって人々が選り分けられる社会という理想自体、どこかおかしなものなのです」

 この能力主義は民主主義と矛盾していると指摘します。

「民主主義において人類はみな自由で平等です。一方で能力主義においては、能力によって人々は区分けされます。ですから、『共和国における能力主義』というのは矛盾しているのです」「能力主義は民主主義という理想の逸脱の一種と見ることもできるのです」

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 本田由紀は "meritocracy" の訳語が日本では主に「能力主義」と訳され、その意味について日本の独自性を感じていました。そして、社会の中で使われる言葉が社会に浸透すれば、逆に社会を規定しかねない。特に教育の分野ではなおさらであると述べています。

「人間は、現実を把握するときに言葉を使わざるをえない。そして、様々な言葉は、その言語が使用されている社会の文脈に応じて、互いに重なったりずれたり変化したりすることにより、現実を客観的に把握・記述・理解したつもりであっても、実は現実を再生産したり誤認を強化したりすることに加担している場合もある。教育のように、抽象度の高い理念が折り重なって充満している領域についてはなおのことである」

 私たち日本人は、古くから言葉は魔力を持っていると感じています。言うまでもなく「言霊(ことだま)」のことです。言葉というものは、個人に対して「暗示」のような精神作用を及ぼすことが知られています。しかし、ここでは、その言葉が、個人を超えて社会にまで力を持つ可能性が指摘されています。私たちは、言葉が、その言葉が用いられる社会を逆に規定しまうという、よりスケールの大きな機能を持つことに留意しなければなりません。

 たとえばマスコミが好む言葉に「想定の範囲内」というのがあります。かつて「ホリエモン事件」から扱われるようになりました。毎日のようにホリエモンが記者会見をやり、不都合な事実・影響が出てくるたび「想定の範囲内」という言葉を用いて記者たちの追及をかわしていたのを思い出します。

 もはや「想定の範囲内」という言葉はネガティブなイメージを持ってしまったといわざるをえません。言葉の意味内容は時代によって変化するとしても、それがマスメディアで多用されることで、その社会が以前抱いていた言葉のイメージを変えてしまいます。さらに、言葉によっては、逆に社会の制度・仕組みに影響を及ぼしかねません。

 「ウソ、大げさ、まぎらわしい」というテレビコマーシャルがありました。「言霊」をオカルトと決めつけるのではなく、私たちは言葉の持つ魔力=「言霊」にもう少し敏感になる必要があります。

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