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法律万能主義の問題点、法実証主義と自然法論

 特に欧米では1970年代後半から政府が社会で発生する様々な問題に対して立法によって解決しようとする傾向が強まり、結果として制定法が増殖し訴訟対象が拡大するようになった。この現象は特に「法化」と呼ばれ、問題視されるようになった。

 日本社会は昔から訴訟を好まず、揉め事があってもとりあえず関係者で話し合い、仲介人による和解などを通じて解決してきた。裁判は徹底的に最後の手段である。

 紛争解決の方法のうち、法的解決は多くの解決策の中の一つでしかない。訴訟という方法を唯一正しいと見て、あらゆる領域の問題解決に拡張させる考え方、訴訟万能主義こそが法化の新しい負の側面である。

 このような訴訟による紛争解決の負の側面が強くなれば、血の通う人間関係を徐々に侵食し、人々が法律を盾にして他者と対立的に関わることしかできない世の中を作り出すことになる。

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 法律は自ら犯罪だと宣言していることを合法化することもできる。納税は国民の義務だというが、納めないと追徴されたり脱税として摘発されたりのが怖いから納めているのではないか。つまり税金は国家に脅し取られているようなものである。

 この理屈が正当化されたのはボダンの「主権論」の確立に始まる。その主権とは、暴力を独占した権力が、多様性を含む地域社会を支配し、その領域内の人々が争いを起こすことがあれば実力で抑止することを、法によって正統化する概念であり、これが成立した時、社会は初めて国家になるとされる。

 アウグスティヌスは「神の国」で「国家とは大きな強盗団ではないか」と問い、ウェーバーは国家を「ある特定の地域の内部で、正当な物理的暴力講師の独占を要求する人間共同体」だが、その本性は悪魔的であり、政治に関わる人々は「悪魔と契約を結ぶ」者であると述べた。こうして本質的に強盗団と等しい国家権力を正しい支配のように信じ込ませる手段が法律である。

 こういう考え方からすれば、法律は正義や道徳とは無関係である。実際、法律は道徳と全く無関係な独自のルールであると論ずる学者がいる。この考え方を「法実証主義」という。この立場からは、法律とは合憲的な手続きを踏んで成立した実定法のみを指すべきであり、それだけが社会の全員が参照するルールであるべきとする。なぜなら、法律は社会のメンバーが行動するときに共通にあてにできる一つのルールブックであるべきだという考えに基づくからである。

 だが、「こんな法律はおかしいから従う意味がない」と考えるとき、あなたは議会制定法よりも世界でいつの時代にも共通に認められる正しさ(理性、人道、良心など)に従うべきだと考えていることになる。このような実定法に優越する効力を持つ方が存在することを信じる思想を自然法論と呼ぶ。

 この自然法論は近代になると「人間の本性」というものによって根拠づけられ、説明されるようになった。しかし、この概念は人によってなんとでも言えるため、客観的・普遍的に存在するものというより、論ずる人の思考の仕方やキャラクター、そしてそのお国柄、時代背景に左右される主観的なものと思われ、普遍・不変の法の根拠としては脆弱である。

 自然法の存在を客観的に示すことが困難であることが知れ渡り、しかもその論者の主張する内容がほぼ人権法典や憲法で明文化されてしまい、体系的に整備された各国の実定法体系の中に組み込まれてしまった。

 しかし、立法が追いつかない、あるいは立法という方法がふさわしくない問題領域、特に最先端の自然科学の分野がある。法実証主義が優勢な現代でも、自然法に理解を示す学者は、「基本的人権の尊重」や「人間の尊厳」を重視し、それらを現実問題への対応や政策決定、立法、法解釈にどのように活かすかという議論をしている。ここでは「人間の尊厳」を二通りに解釈する。一つは人間の中に備わっている尊厳という意味、もう一つは人間が尊厳を所有している状態という意味。前者のように解釈すると、尊厳が独立的に存在し、人間はその容器となる。後者の場合は、人間が尊厳を持って行動することとなる。

 人間は容器としてその内にある実質的価値たる尊厳を守らなければならない義務を持つ。これは価値志向型尊厳観という。もう一つは、人間が「尊厳」をもって、つまり常に他人に介入されることなく自分の理性を自分で使い、自分の意思で思考し行動できなければならないと言うことになる。これは主体性志向型尊厳観という。

 価値志向型尊厳観の場合、個人の主体性よりも守られるべき価値の方を優先する見方は、国家が特定の価値観を決定し、それと結びついた生き方を人々に強制する場合に利用される可能性がある。それに対し、主体性志向型尊厳観という見方は、十分な判断能力を持つ個人の自律的な思考と選択を保証するが、その適用はあくまでも十分な知見と理性と判断能力を持つ成人に限定される。

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