佐賀藩の軍事大国化のきっかけとなったシーボルト台風

 佐賀藩が日本最高の科学技術国となり、最強の軍事力を持つに至ったのは、1808年のフェートン号事件がきっかけだと言われるが、実は台風も影響していた。

 佐賀藩は福岡藩でヨーロッパ戦から長崎を警備する役目を担っていた。イギリスの軍艦フェートン号が長崎湾に侵入し、出島のオランダ商館員を人質に取った。平和ボケしていた佐賀藩は警備を手薄にしていた。そこへ突如イギリス軍艦がやってきて人質と水・食料の交換を求めた。海軍力で脅された日本側はなす術もなく、イギリス軍艦は物資をせしめて悠々と去っていった。

 鍋島斉直は幕府から百日の謹慎処分を受けた。その後、二十年間藩政を仕切ったが、退陣はシーボルト台風の直撃がきっかけだった。

 佐賀県において歴史上最も悲惨な台風はこの1828年のシーボルト台風である。佐賀藩の人口は36万7000人、この台風での死者は1万285人で藩の人口の2.8%が死んでいる。領内の家屋は半分近くが倒れ、半壊を含めれば約七割が駄目になっていた。低湿地が多いため耕地の半分が使えなくなった。財政の半分近くを借金で賄っていた佐賀藩の政治は行き詰まった。

 さらに斉直には浪費癖があった。これに代わった新藩主は15歳の斉正であった。斉正は「用を節して人を愛す」という「節用愛人」を根本理念にして施政方針を出した。財政を節約して人をいたわる。年貢収入でやっていけるよう、無駄遣いをやめ、武士と領民に負担をかけないようにしたかった。

 また蘭学を奨励する儒者古賀穀堂と蘭学好きな鍋島茂義の二人をブレーンにした。

 長崎警備という役目も果たさなければならない斉正は、藩主になるとまもなく長崎に向かった。ブレーンの古賀が進言した。長崎警固のためには万国を抑えなくてはならない。いずれ蘭学の人がいなくてはかなわない、と。斉正の好奇心が芽生えた。「西洋帆船の実物を見たい」と思い立った斉正に、幕府は視察を許可した。

 その後、茂義は火縄でなく火打ち石で点火する西洋銃を購入し、オランダ式の銃陣の研究をはじめ、兵の洋式化を進めた。以後、戊辰戦争まで佐賀藩は他のどの藩よりも軍事技術で最先端をいった。

 また兵器の国内製造を目指して、からくり儀右衛門を雇い、大砲製造を命じた。その後、日本中で佐賀藩にならって大砲を鋳造する反射炉の建設が始められるようになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?