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古代世界とヨーロッパ世界形成とペスト

 19世紀に入り次々に病原体としての細菌が発見されるや、脚気もまた細菌の感染症であるという考え方が一般化した。1886年東大の緒方正規が脚気の病原菌を発見したという論文を出した。この時コッホのもとで研究中であった北里柴三郎がこの脚気細菌病原説を批判する。

 ドイツから帰った北里は煙たがられ東大に奉職できなかった。悶々とする北里を見かねた福澤諭吉は財界から多額の寄付を集め、1892年私立伝染病研究所が設立された。北里のために作られた組織であった。

 内務省は北里を香港にペスト研究のために派遣し東大は青山胤通を送った。

 北里はすぐさまペスト病原菌を発見したと国内に打電したが、まもなくパストゥール研究所のイェルサンが北里のと異なるペスト菌を発見したと報じられた。これは皮肉にも翌々年緒方によって明確化され決着がつき、パストゥール研究所のイェルサンによって単離された細菌がペストの病原体であった。

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 ペストという言葉は本来「悪疫」の意味で用いられたため記録の中のペストという言葉をもってペストの流行と断じることは不可能である。天然痘も紀元前五世紀にアテネを襲った悪疫は「アテネのペスト」として知られている。

 最初のペストと断じている最初の記録は、紀元前十一世紀ごろと推定される聖書の中の「サミュエル書」にある。より確実なペストの記録は、紀元前三世紀から長期間エジプトから中東付近で見られた流行病の記録である。その記録はペストの特徴を的確につかんでいる。しかしこの時期この地域では大流行というよりは定着した形で存在し、折に触れて小流行を繰り返し風土病として定着していたかのように思われる。

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 「エピデミック」という言葉にはデモクラシーの語源でもある「民衆(デモス)」に基づいており、「人々の間に広く行き渡る」という意味である。したがって、「パンデミック」というのは病気が「世界的な規模」で流行する状態を指している。

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 アンリ・ピレンヌによれば古代世界を地中海圏の文化と規定し、ヨーロッパ中世を内陸圏としてこれに対置させ、文化がそのような向内陸的性格を示し始めた時期、つまり中世ヨーロッパ世界が形成され始めた時期を七、八世紀においている。

 しかし六世紀のペストの流行がはっきりと向内陸的な性格をあらわにしたことは、すでに六世紀にヨーロッパ世界形成の準備がある程度出来上がっていたことを暗示している。というのもペストが伝播するためには、そのルートとなる交通路が整っていることが必要であり、またそれを通じての人間の頻繁な往来と交流とが条件となる。つまりこの時代には、ヨーロッパの内陸部に向かってそうした条件が整い始めていたという事実を確認したい。その六世紀半ばヨーロッパのペストの西北限はアイルランドまでだった。

 ところがそのパンデミックは750年前後以降突然三百年間の空白を迎える。再燃するのはヨーロッパが中世前半の一つの時代を終えて新しい改革と革新とに向かおうとする時期、すなわち十一世紀のことであった。1032年ごろインドに原発したペストは西に向かった。1095年に聖地奪還を目指した十字軍による戦乱はペストの流行に拍車をかけた。

 人間の間にペストを流行させる主原因だったクマネズミは、十字軍当時ヨーロッパの内陸部には生息していなかった。野生のアレチネズミ類の間で保菌されているらしかった。ネズミどうしのノミの媒介により人が感染する。十字軍の艦船がヨーロッパに帰港したとき、その艦船には姿を消していたはずのクマネズミが乗っていた。ペストを抱いたノミが大陸に放たれヨーロッパではペストの流行は加速度的に増加する。

 中性社会の農業を特徴づける「三圃式農業」は九世紀ごろから少しずつ採用され始め、収穫量は飛躍的に増大した。豊かになった農業共同体の人工の把持力が高まるとそれに伴って中世都市が生まれる。十一世紀以降の十字軍はそうした商業都市を嫌が上にも活性化した。その後バルバロッサに代表されるアルプスの彼方からの侵攻にも耐え抜く軍事力を北イタリア諸都市は獲得した。特にヴェネツィアの力は大きかった。こうしたヨーロッパの社会組織の再編成が、ヨーロッパ自体の「革新」を促したと言えよう。それは十二世紀に入ると爆発的に拡大する。アリストテレスの全著作がギリシャ語からラテン語に翻訳された。レコンキスタによって、イスラムからギリシア文化を学び、その学問的文献を翻訳、受容しようとする一つの文化復興運動さえ起こった。つまり西ヨーロッパ世界は中性社会を形成後文字通り始めてギリシア的古典的な学問文化をほぼ全面的に我がものとし知的財産として蓄えることになる。

 こうした状況で自然発生的な形で誕生したのは大学であった。学生たちが商工業者が主人公である都市において、自分の市民上の権益を守ろうとして作った一種のギルドであり組合組織である大学(ボローニャ型)、逆に教師たちが自己の権益の確保のために編成した組合組織としての大学(パリ型)と淵源に多少の違いはあるがそれらの組織が発達していく。また学問的知識が横のつながりの中で公共的に論じられる習慣が生まれ、それはさらに膨大な学問的文献の翻訳とその普及が大量のコピーの需要を発生させ、そこに印刷された書物の登場を見るようになった。

 十一世紀ヨーロッパ革新の波は教会をも例外なく襲っている。教皇権は、ビザンツ・東ローマ帝国における皇帝教皇主義を受けついた形をとる神聖ローマ皇帝オットー一世即位以後も世俗的な権力機構と癒着を続け、聖職位が金で売買された。叙任権闘争を中心に、カノッサの屈辱(1077年)を経てウォルムス協約(1122年)に至る一連の動きの中で、教皇グレゴリウス七世を中心とする教会改革運動は、単にカトリックの教会の内部もしくは教会と神聖ローマ皇帝とのヘゲモニー争いという意味のみが重要なのではなかった。

 こうして多くの分野で巨大な改革を体験したヨーロッパは知的生活においても日常生活においても十三世紀には一つのピークに達しつつあった。三圃式農業による穀物の収量は九世紀に比べると十倍近くになった。農機具は鉄製になり、水車も定着し、脱穀から製粉まで奴隷の人力を必要としなくなりつつあった。都市圏では都市民(ブルジョアジー)を構成する人々のギルドも全ヨーロッパを通じて組織化され、商人の活躍は、特にイタリア諸都市やドイツ系ハンザ諸都市では抜群であった。都市には大学が設置されスコラ哲学がトマスアクィナスを中心に高揚し議論も活発であった。貴族階級には騎士道が定着しそこにも一つの文化が生まれた。要するに西欧的中世封建制度は十世紀あたりを境に始まった様々な改革の結果として十三世紀にはその隆盛を極めたといってよい。

 しかし十四世紀に入るとフランドル地方で織物業の盛んなブルージュ・ガン・イーブルの諸都市は相互の思惑とフランスやイギリスの貴族勢力との拮抗によって自滅することになる。つまり、十四世紀はヨーロッパ封建社会は最盛期を過ぎて、政治的経済的、社会的にも、変革と再編へと動き始める怪しげな蠢動を、各地に感じ始めていたと言えるだろう。そして、史上最強の致命的なペストの大流行が、ヨーロッパ大陸を襲ったのは、こうして繁栄と安定に陰りの見え始めてきたこの時期、すなわち十四世紀も半ば近くのことであった。

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