推しのうつくしさに全面降伏したみにくい女のたわごと

台風のせいでどうなることかと思った日曜日の観劇だったが、無事に会場にたどり着くことができた。

感想は、ひとことでいうと、すさまじかった。

えび座(A.B.C-Z主演『ジャニーズ伝説』)を観ると、わたしは毎年のように推しに心をうばわれる。きれいすぎて、眩しすぎて、やっぱり離れられないと思う。あのひとが最も輝くのは舞台の上で、とりわけ、言葉を使わずからだだけで表現をしているときがきれいだとおもう。この世にもなくうつくしい生き物だとおもう。

観劇のさいしょはいつも、ああもうわたしは、このひとがいなくてもいいのかもしれない、だって沸き上がらない、掻き立てられない、それなら好きでいる意味がない、と思ったりするのだが、筋書きが進むにつれて、そんなことはない、とおもう。というか、気がつくと引きこまれて、身動きがとれなくなっている。なんて、なんて、きれいなんだろう。

わたしにはいまだにわからない。ひたむきさ、けんめいさ、本気さ、むじゃきさ。どれをあてはめてもしっくりこない。いったい推しの何に、こんなにも惹かれるのか。混乱する。混乱して、ひれ伏す。膝を折る。完敗だ、とおもう。舞台でだれよりも汗を光らせ飛び散らせながら、踊る推しを見たら。とんでもない高さからバク宙で飛び降りて、それでもへいきで笑っている推しの顔を見たら。

推しの何が凄いって、こっちを屈服してやろうだなんて、みじんも考えてないところだなあ、とおもう。カッコ良く見られたいとか、そういうことは、頭をよぎりはするかもしれないけど、目的にはならない。ただがむしゃらに、やり尽くす。

その、あまりの虚飾のなさに、うたれる。一生懸命な大人。うつくしいひと。どうしても目を逸らしたくない、とおもう。意思の力で。たとえこの先、このひとよりうつくしい男のひとが現れたとしても、このひとから目を逸らさない。

こういうとき、わたしだけわかっていればそれでいい、と思ってしまうのは、わたしの悪いくせだとおもう。わたしの中の推しの虚像と重要性については、わたしだけわかっていればそれでいい、だれかにわかってもらう必要はない、と。だからわたしは、おたく友達がすくないのだろう。いくら一緒に行く回数を重ねても、膜が一枚噛んでいるような疎外感がある。
それはたぶんわたしが、推しの話をだれかに話すことで満ち足りようとは全然思っていないからだ。つまり、さびしいのも疎外感があるのも、わたしの問題だ。友達は悪くない。

浮かれとむなしさにちょうどよく挟まれながら、いまから二推しの現場。一推しへ心を残しながら、何本も何本も知らない電車を乗り継いで、よく知る場所に向かう。横浜。バックダンサー。わたしはほんとうは空っぽなのかもしれない。それを、知りたくないだけなのかも。

#日記 #エッセイ #おたく #ジャニオタ #観劇

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