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本を、読書を、愛し続ける人生

読書離れ、出版不況という言葉が出てきて、少なく見積もっても10年は経ったと思うのだけども、読書文化に代わって、ネットやYouTubeやTikTok文化が急速に広まった。わたしもYouTubeを観るのが好きで、休みの日はへたすると一日中観ている。読書好きを自認しているわたしですらこんな調子じゃあ、そりゃみんな本読まんわな、と納得さえする。

こんな怠惰というか脳味噌を甘やかした生活を送っていると、文体が難解な作品とか長編の小説を買ったときに、集中できないんじゃないかしらとやや危惧する。でも実際本をひらいてみると、そんな心配をしていたことすら忘れてしまう。あっというまに、入ってくる。むしろ昔より読解力が上がってるんじゃないかとすら思う。単純に子供のころより語彙が増えたし、自分の読み方の癖もわかってきたからだろう。特に明治時代の文豪たちの名著は、現代とは語彙がかなり異なる。言葉を知っているか知らないかで、つっかえる回数が格段に変わる。そういう意味でも、漢検の勉強をやっててよかったなーと思う。こういう意味ねーと、さっさと次に進んでいける。歳は取ってみるものだし、勉強もしてみるものだ。どこで幸いするかわからない。

わたしは文庫本を愛している。とりわけ新潮文庫が好きだ。紙のうすさと風合い、文字の詰まり具合に字体、こげ茶の紐のしおり、へんにつるつるしすぎていないカバー、作者紹介の字体と作者近影のチョイス、上品な色付きの背、カバーを外したときに表れるうすベージュの表紙に葡萄のマーク、なにもかも、好みである。わたしは江國香織さんが大好きで、出版された文庫本はほとんど全部持っているけども、新潮のものがいちばん、だんとつで、好きだ。長年読んでいくうちにカバーがぼろぼろになっていくところもいとおしい。朽ちかたまで好みとなると、もう降参である。

古本屋に行くと、たまに、かなり昔の新潮文庫に出会うことがある。どれくらい昔かははっきりわからないのだけども、今よりももっと1ページあたりの文字量が多く(つまり字が細かい)、和紙のように紙が薄い。たいてい茶色く劣化しているのだが、その風情にすら胸をうたれる。

こんなことをべらべら語るのはおたくじみているが、世の中には漱石の『こころ』を、版元や刷数ごとに何十冊も買い集めて、その違いを愉しむという人もいて、その対談を読んだとき、この人に比べればわたしの文庫愛なんてものはまだまだ底の浅い、うわずみを掬ったようなものだ、と思った。その人曰く、段組みや字体が違うだけで、物語自体がぜんぜん違う味わいになるのだという。わたしはまだその域まで達していない。ただただ新潮文庫を偏愛して、たまらんな、とうなずいているだけだ。

本をもう読まなくなるということは、わたしにとって、なんというか、一生鼻呼吸をしないということと似ている。口呼吸のほうが楽だし、口呼吸ができるから死にはしないのだけど、そうにしたって一生しないなんてことはまず考えられない。それくらい、あたりまえで、なくなるなんてことは考えられないもの。それがわたしにとっての読書。むずかしい論文だろうが小説だろうが専門書だろうが歴史小説だろうが、なんでもこい。わたしは本を、読書を、まるごと愛している。そして、それがわが人生、などと、うそぶいてみたくなるのです。

(今日のBGM)
kanaria「エンヴィーベイビー」

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