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殴られたら、戦え

さいきんまた津村記久子さんの本をえんえんと読み返している。実年齢が上がれば上がるほど、骨身に染みたり、理解できたりするぶぶんの範囲が広がってゆくのを感じる。働く人間のもつ鬱屈というものを、津村さんは微に入り細に穿ち描ききる。まったくおなじ、というわけではむろんないが、この感覚を知っている、と思わされるのだった。

『ワーカーズ・ダイジェスト』では、あるときを境に、理由もなく主人公にだけ攻撃的になるようになった年上の同僚女性が、何故そういう態度をとるようになったのか、主人公が察するシーンがある。
その年上女性は自分よりだいぶ年下の夫とスピード婚したのだが、あるとき、その夫婦が一緒にいるところを主人公の友人が目撃した。年上女性は過剰なくらいに夫の世話を焼きまくり、夫自身はその様子にひいていたという。つまり、うまくいかない結婚生活の不満の捌け口として、職場で主人公に当たり散らしていたというわけだ。それに気づいて、主人公は思う。「この人は心の澱をどこに捨てたらいいかがわかっている」と。結婚生活を破綻させないために、夫には不満を告げず、私生活では機嫌よく振る舞い、その溜まった鬱憤を、よそにぶつける。ああ、そういうふうにバランスをとる人はいるよなあ、としみじみ思った。実感として。

職場に、三児持ちの女性がいる。その人は本質的にはいい人だし、基本的にフェアな人なのだが、ときおりよくわからないつっかかり方をわたしにだけしてくるときがある。主人公と同じ状況である。

たぶん、私生活で夫やら子供やらにいやなことをされて気が立っているんだろうな、と想像はする。気が立つのは勝手だ。当たり散らすのも勝手。でも、それを許す必要はない。
しかしわかりやすいパワハラとかじゃないから、訴えづらいんだよな、こういうたぐいの加害って。そこがセコい。自分が責められない逃げ道残したうえで、弱い立場の後輩に当たり散らして溜飲下げるとか、卑怯にも程がある。

そういう態度を取られるたび、最初はとまどって下手に出ていたけども、さいきんはこれ八つ当たりだよな?と気づいたら、返事の仕方を変えるようにした。「あ゛い(ぶっきらぼうに、威圧するとき用の低いでかめの声を使う)」とか、「あ゛ー確認しまーす(笑わずに不満な声を作って語尾を伸ばす)」とか、「それは知らないっす(普段は「です」とちゃんと言うけども、そうしない。はっきりとでかい声で言い切る)」とか。その人は声色やら態度の細かい差異に敏感なので、ふだんきちんとした敬語を使って感じよく話しかけ、へらへら笑っているわたしがこういう感じの悪いあいづちを打つと、態度を改めてくれるのだった。そういうところも含めて、この人は人がいいな、と思う。八つ当たりをするときがあっても、わたしの態度ひとつで瞬時に反省して、普通の態度に戻ったりするところが。

わたしは、機嫌次第で八つ当たりしてくる人に対しては冷たい。会社ではとくに冷たい。自分が私生活のひずみを会社に持ち込みたくないという人間だから、よけいに腹が立つのだ。勝手におまえのサンドバッグにしてんじゃねえ、金もらっても御免だわ、と中指を立てたくなるのだった。

ふだんはへらへらしていてやりこめられがちだけども、譲ってはいけないぶぶんでは正しく反撃をする、というのは、津村作品の主人公に多くみられる美質である。わたしの返事の仕方だって、たいしたことじゃないかもしれない。でもこうやってやりかえさないと、その人はこれがやっちゃいけないことだって気づけない。言葉の八つ当たりは、無抵抗の人をいきなり殴ってるのと同じことだって、知らないのだ。だから、わたしは戦う。働き続けなければいけないから。ときどきはくじけるだろう。でも、戦う。津村さんの本は、わたしに社会で生き抜く背骨をくれる。いつも。

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