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月の缶詰 スピンオフ3

後悔の新月

気がつくと空だった。
新月の日が来たのだ。
この朔の夜が明けるとき、三日月になった者が次代の月だ。

「結局、美晴に挨拶もせんかったなあ。泣かせてしまうな。」

そろそろだと分かっていたのにさよならを言えなかったのは、泣き顔を見たくなかったから。
最後の最後までいつも通りがいいという自身の我儘を通して、美晴が何度か別れを言おうとしたのに気がついても、まだ大丈夫と言わんばかりにその雰囲気をわざと崩した。
共に過ごしたこの短い間にも、美晴が寂しがりであることや自分に信頼を寄せてくれていることには気がついていて、自分がいなくなるときには、自惚れではなく、彼女が泣いてくれるであろうことも容易に想像できていた。
やっと独りに慣れた彼女の日常に自分の都合で棲みついて、そしてまた自分の都合で置いていく。
そのことは摂理であって、月にもどうしようもないことだけれど、どうあっても美晴を泣かせることしかできそうにない自分にがっかりした。

別れを言えなかったのにはもう一つ理由がある。
帰ってくると約束をしてしまったからだ。
それなのに、月は別れの言葉に「またね」を選べない。

美晴に言った、「欠けたからといって月になれないわけではない」というのは嘘ではなかったけれど、それが途方もなく厳しいことであると月は知っていた。
月が欠けてしまったとき、美晴があまりにも真っ青になって泣きそうになりながら謝ってくるから言えなかったけれど、月が知る限り、欠けた者が月になれた例は永い歴史の中で過去に2回しかない。
自分が3回目になれるとは到底思えなかった。
特別な素質は何もなく、美晴と過ごした日々は穏やかで幸せではあったけれど、月になるための何かを手に入れられるようなものではなかったように思う。
欠けたこと自体はしょうがなかったと本心で思っているし、完璧な球体の自分にあまり未練もない。
いずれにせよ、月になれたら帰ってくると美晴にした約束はたぶん果たせない。
そのことだけは、月をひどく打ちのめした。
果たせないだろうと分かっていて、それでも約束したのは美晴のためだった。
あのときはそう思っていたけれど、今考えれば本当は自分のためだったのかもしれない。
美晴のそばに帰りたい、忘れないでいてほしいというのは月の気持ちで、帰ってくるか分からない者を待ち続けるには彼女にとって5年は長いだろう。

せめて、さよならを言ってやればよかった。
泣かせても腹を括って別れを告げてやればよかった。
またねではなく、きちんとさよならを。
一度手に入れた希望を失うとき、どれだけ絶望するのか知らないわけではなかったのに、叶えられもしない約束をして却って傷つける。
本当のことを伝えることで、たとえ美晴に罵られても、独りで泣かせるよりはきっとましだった。

あんな自分のひと欠片ではなく、たったひと言の別れの言葉を置いてこなかったことを僕はいま後悔している。