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僕と天使の物語

 白だ。どこもかしこも白だ。
 見渡す限りどこまでも白が広がるこの空間には影すらもなく、壁と天井の区別もつかない。当然足元も真っ白で、僕が寝かされていたベッドはまるで宙に浮かんでいるようかのようだ。立ち上がったら落ちるのではと不安になってベッドから足だけをそろりと下ろしてみると、素足の爪先はすぐに固い感触とぶつかった。どうやら落ちる心配はないらしい。ゆっくりと立ち上がって、さてこれからどうするかと考えた始めたときだった。
「お目覚めですか」
 背後からの声に振り返ると、確かに僕と白以外は存在しなかったはずのこの空間に紺のスーツを纏った若い男性が立っている。街中で見かければ景色にしかならないはずのその男性は、この白すぎる空間の中ではあまりにも異質で圧倒的な存在感を放っていて、非日常の中に紛れ込んだ日常がこの空間の現実味のなさを強調しているようだった。
 黙ったままの僕に気分は悪くないですかと声をかけてくれる良識的な男性に頷くことで返事をしながら、日常の切り抜きだと思っていた彼がやはり非日常の住人だったことに僕は気が付く。

――彼の背中には大きな白い羽が生えていた。

 僕の常識では人の背中についているはずのないその翼から、僕が目を離せないでいる間にも男性は慣れた動作でスーツの内ポケットを探り、取り出した名刺入れから一枚を抜いて僕に差し出した。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、こういうものです」
 どうもと反射的に受け取った名刺には読めるが理解できない言葉が羅列されている。

天界 天使局 ゲート課 第一審査係
係長 サン・サノシュ

 あなたを担当しますとにこやかに言った男性は、微笑んでいるのになぜか少し苛立っているように見えた。

「お名前の割にすごく日本人顔ですね」
 状況把握に散々時間をかけた末に僕がやっと絞り出すことができた言葉は、大人としてどうかと思うほどに素直すぎて失礼だった。
「よく言われます」
 こういう反応に慣れているのか、サノシュさんはにこやかな顔を崩さない。立ち話もなんですからと手のひらで示された先には、いつの間にかベッドの代わりに白いソファが向かい合うように並んでいる。
 ソファに腰掛けると、サノシュさんはやはりいつの間にか両手に持っていた白のマグカップのうちの一つを僕に差し出した。いただきますと呟いて温かいコーヒーを一口啜り、コーヒーはちゃんと黒なのだと気づいて可笑しくなる。嗅ぎ慣れた香りと手に伝わる熱にほっとしたのか、目まぐるしく起こる非日常の情報処理に手いっぱいだった僕の脳は、おそらく最初に尋ねるべきだったことをやっと考えついた。
「ここはどこなんでしょう」
「分かりやすく言えばテンカイですね」
 正確には違いますがと注釈しながらサノシュさんが教えてくれた地名には聞き馴染みがなく、僕にはそれが日本なのか海外なのか、漢字なのかカタカナなのかすら分からない。
「不勉強なもので僕はテンカイという場所がどこにあるのか知らなくて……。すみません」
「おそらく地上にお住まいのどなたも場所はご存知ないと思いますから気になさらなくて大丈夫ですよ。でも、天界自体はご存じかと思います。想像されている通りの漢字で書く、言わば神や天使の世界ですから」
 ここで僕は先ほど貰ったばかりの名刺にもう一度目を落とした。ただの文字列から意味のある言葉として頭に入ってくるようになった彼の所属を確認して、彼が羽を持つ理由が分かった気がした。
「サノシュさんは天使なんですか」
「ええ」
 サノシュさんはこともなげに頷き、自身が天界の住人であることを肯定した。
「天界が神様や天使の皆さんの世界だとしたらなぜ僕はここにいるんでしょうか」
「……天界は善き人たちの死後の世界でもありますので。」
 サノシュさんが言いづらそうに目を伏せる。
 ただの人間である僕がここにいるのは、つまり。
「……僕は善人ではないですけど、ここに来たということは死ねたんですね。」
 サノシュさんは一つ瞬きをしただけで何も言わなかった。そして、言いたいことを整理するように少し沈黙を守ってから静かな声で僕に尋ねる。
「死ねたとおっしゃいましたが、あなたは死にたかったんですか」
「うーん、どうでしょうか。自分でもよく分からないけど、なんか疲れたなとは思っていました。それからあいつに会いたいなって思って……」
 あいつ、と小さな声で繰り返すサノシュさんに笑みを作る。
「一番のダチってやつです。佐々野舜っていうんですけど。八年前に亡くなっちゃって。」
 それこそ舜は今、天界にいるのかもしれないとふと思った。
「彼に会ってどうしたいんですか」
「ええっと、どうしたいかな……。本当は昔みたいに一緒に過ごしたいけどたぶん無理だから、……せめて謝りたい、かな」
 謝っても取り返しがつかないので向こうからしたらいい迷惑でしょうけどねと自嘲する。
「彼と何かあったんですか」
「あいつ、俺のせいで死んだんです。部活の帰り道、突っ込んできた車から俺を庇って。」
 今も鮮明なあの日の記憶が蘇る。
「俺たちは健康な男子高校生だったんで部活終わりはいつも腹が減ってて。でも万年金欠だったので、いつもだったらすぐ家に帰って飯を食うか、よくてコンビニに寄るくらいだったんです。でも、あの日はどうしてもハンバーガーが食いたくなって。当然いつもより帰りが遅くなったから完全に陽は落ちてたし、街灯が少ない道だったから運転手は俺たちがよく見えなかったらしくて。ハンバーガーも俺から誘ったし、舜は自転車通学だったのに俺に気を遣って一緒に歩いてくれてて、それで……」
 いつもみたいコンビニの唐揚げくらいで我慢しておけばよかった。近道だからと暗い道を選ばなければよかった。遅くなったんだから早く帰れと言えばよかった。
――俺だったらよかった。
 何度後悔しても、自分を責めても、舜は帰ってこない。

「全然お前のせいじゃなかっただろ。」
 足元を見つめながら低く吐き出された小さな声はよく聞き取れない。ただ、今まで一度も丁寧な態度を崩さなかった天使からどうやら乱暴な言葉が発されたのだということは、顔を上げたサノシュさんの半ば睨みつけるような強い視線から推察できた。
「俺だったらよかった、なんて言われたら私だったらぶん殴りたくなりますね」
 その視線が感じさせる激情に対して彼の口調は落ち着いていた。
「本人が望むなら謝罪は受け付けますが、俺が後悔してないのに友人がぐだぐだと悩んで不幸せそうな顔していたら俺はとても腹が立ちます。どうせならこっちで会うときに面白い土産話の一つでも用意できるように精一杯生きとけよって言ってやりたいですね」
 なぜか一瞬、似ていないはずのサノシュさんに舜の顔が重なる。
「……あいつもそう言う気がします。それでめちゃくちゃ怒るな、きっと」
 怒り狂って、そして最後にはしょうがない奴だなと呆れたように目を眇める舜の姿が容易に想像できて笑ってしまう。今さらもう遅いけれど、もしも僕の人生に続きがあったなら以前よりもう少し前向きに生きられる気がした。
 笑いながら目頭を押さえる僕を、サノシュさんは優しく見守っていた。

「そういえば僕は何か審査されるんでしょうか」
 あの名刺を受け取ってからだいぶ時間が経っているのに、まだ僕の話しかしていなかったことに気が付いた。サノシュさんの仕事の邪魔をしてしまったかもしれない。
「ええ。でももう終わりましたのでご心配なく」
 出会ったときのようなにこやかな表情に戻ったサノシュさんは用意された原稿を読むように淡々と説明し始めた。
「私たちは天界への門を通行するための条件を満たしているかどうかの審査を担当しています。基本的に、条件を満たす方はこのまま天界にご案内し、不適格となった方は条件を満たせるまでこちらで審査担当者と過ごしていただくか、元の世界にお帰りいただくことになります」
「条件?」
「詳細についてはお答えできませんが人によって異なります。ただし一つだけ、『生を終えている』ことだけはどんな方にも例外なく共通する条件です」
 ここまでの説明を僕が理解できていることを確認するとサノシュさんは姿勢を正し、そして真面目な顔で続けた。
「厳正なる審査の結果、あなたを不適格とします。そして、こちらで過ごすこともあなたにはまだ早いようです」
 サノシュさんが僕に結果を告げ終えた瞬間、理由を尋ねる間もなく僕の視界は急速にぼやけ始め、抗えないままに意識が沈んでいく。完全に意識を失う直前のほんの一瞬、最後に聴覚だけがそこに残った。

「とっとと帰れ、ばーか」
 少し乱暴で、そして呆れた笑みを含んだ声は会いたかった友人のものによく似ていた気がした。