精神の考古学 -四大元素の声、セム・セムニーより-
現在ではほとんどやられていないという、ゾクチェンの古くにあった、四大元素の声(「土、水、火、風」の自然元素の潜在力を熟知する)を聞くというヨーガを実践している筆者。
水が一番わかりやすく一体となる感覚があるのは、水には音声があり、水は水の外界を巻き込み、その場の独自のリズムと音を奏でるからだと思う。自分の体内にある水と同調する感覚。
↑これは水と一体となったとき知覚したリズムが自分のリズムと似ていた。そのときの詩。
家にはネオンテトラのいる水槽があって、日常より水が循環する音を常に聞いているためか、水の音とリズムが同調し心地良くなったのだった。
(記事の写真は諏訪大社前宮の小川。)
バシュラールのいう音声化は、自然界にある物質独自の周波数でもあり、陰陽五行の木火土金水に通じる。
人間の感情や想いは、四つ、五つに大きくわけられ、それは自然界にある元素の声と同じものだと言っているのだろう。
それらの自然の声が聴こえると歓喜が湧き起こると先の文章の後に書かれているが、私は歓喜というより、自然の周波数と同調出来る心地良さを感覚する。修行の苦難を経て達成した場合は歓喜の感動が起こるのかもしれない。
自然との同調だが、合う合わない、合わせたくないという感覚もあるが、それは自分自身の属性に由来するのかもしれない。声は聴こえるが、同調は敢えてしたくないという思いがあるモノが在る。その感覚は人間の集合意識との同調と似ている。
常に動いている心は、自分を軸にしてその活動が行われる為、毎日刹那に一喜一憂し感情を伴いますが、それは自身の想像力によってもそうなる。想像力が長けている為、人間は恐怖や不安も所有する。
しかし、それは仮想(幻想)である。その幻想を見る「私」は偏見があるのだ。恐怖や不安は怠惰や欲望を所有している故に起こる。その所有物が失くなる恐怖と不安という一連の心の動きを此処では、セムニーとニルヴァーナの活動制限と言っているのだと思う。
「私」をなくせば、仮想(幻想)を見る私もなくなる。ブッダさんと同じことを考えていたと、今知りました。一連のそれを考えさせるのは、人間には死があるからで、死の恐怖があるのは、自分を続けたいという欲望から来ている。それは幻想であるため、滅しなければならないと私も3年くらい前のそのとき思いました。
いや、実は単に破壊フェチなのもあります。
自分を何処まで無くせるか、自分に「有る」をみつけて、壊していく時に快感があるのです。こちらは歓喜ですね。無になるときの歓喜。(私には「校舎の窓ガラス」が欲しいという危険性を孕んでいる)
外界の他や他者にも見つけますが、なかなか壊れないですね。自分は変えられるが、他者は変えられない所以でもあり、自分の無力さも同時に発生します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?