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幸福が外に現れている『バベットの晩餐会』

 数か月前から、バベットの晩餐会を映画館で観たい、観たい…と念仏を唱えるように思っていたら、先日、年明けに『午前十時の映画祭』で上映されることを知って飛び上がった。

 映画のあらすじは、19世紀後半、デンマークの小さな漁村が舞台。そこでルター派の牧師だった父の遺志を受継ぎ慎ましく暮らす姉妹のもとに、パリ市の動乱(パリ・コミューン)で夫と子供を失ったフランス人女性バベットが現れ、家政婦として住み込むことになる。それから14年が過ぎ、ある日バベットが宝くじを当て大金を得る。そして彼女は、亡き牧師の生誕100年を祝う晩餐会で、そのお金を使って料理を振舞いたいと姉妹に申し出る。そんなバベットは実はパリで天才シェフと呼ばれていた女性だった…。

 確か私が20歳の頃、深夜1時過ぎにテレビ放映されていたバベットの晩餐会は『満たされる』を実感した映画だった。エンドロールまで観終えた私は、テレビ画面に向かったまま暫く呆然としていたのを覚えている。今思うと、美味しいものでお腹いっぱいに満たされた時、余計なことは何も考えられないように、この映画の美しさに満たされてしまったのだと思う。

 そして先日、岸見一郎さんのnote記事で拝見した一文がこの映画を表しているようでドキッとした。

 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如く自ずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」(三木 清『人生論ノート』)
 幸福は必ず外に表される。その外に表れた幸福が他者に「伝染」するのである。

 まさしくバベットの晩餐会は幸福が外に現れている。幸福を愛に置き換えてもイイかもしれない。自身の能力と、手にした大金を使い切らせたバベットの愛が、晩餐会での村人に、そして私にも伝播した。晩餐会に何か温かな気配が漂うのを感じ、村人たちの多幸感にも圧倒されて、信仰とは無縁の私が『この場は祝福されている。』なんて普段口にすることも無い言葉が頭に浮かんで、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。また、晩餐会を終えて戸外の満天の星空の下で、村人たちが手をとり輪になって歌う姿にも幸せが現れていた。上機嫌が村人に手を繋がせ、歌をうたわせたのだと思う。まるで、おとぎ話のような心に残る美しいシーンだった。

 とにかく、序盤の少し陰鬱で淡々としたストーリーから終盤へかけての高揚感は、何とも言えない不思議な感覚だった。それまでの、夫々の営みの中での微細な頑なさや誠実さが密かに積みあがっていたかのように、晩餐会のシーンではそれらの背景にも僥倖が頬を寄せるような手応えのある幸福感を感じられた。

 あれから約30年が経ち、私には遠い存在のはずだった晩餐会で席を並べていた年老いた村人たちが、今では身近な存在となった。しかも、初老の姉妹に関しては、もはやご同輩だ。今改めて観たら何を感じるのだろう?楽しみでもあり、少し怖くもある。

 今この映画を振り返ると、あの晩餐会に料理の価値を分かり、語れる人物が1人居てくれて本当に良かったと思える。お陰で、皆が安心して喜びのなかで料理を堪能することが出来た。そうでなければ、不安のなかで贅沢な料理を貪るだけになっていたかもしれない。庶民の私はそんなことも思った。それに、全ての芸術家には1人でいいから寄り添う理解者が居て欲しいと思う私には、人の心を震わせる料理を生み出すバベットのような芸術家にとって適切な理解者が居合わせていたことは救いに思えた。

 今日はクリスマスイブ。娘は友達の家族と一緒に1泊で東京ディズニーランドに行っている。初老の夫婦と後期高齢者の義父の3人だけの夜はいつもの夜と変わらない。こんな味気ない夜は、映画館で存分に楽しむ為に観ないで我慢しているけれど、Amazonプライムで配信になっているバベットの晩餐会をいっそ観てしまおうかと、夕飯代わりにシュトーレンを噛みしめながら迷っている。それにしても、ラム酒の効いたシュトーレンは美味しい。若い頃はラム酒のロンリコ151をショットで楽しめていたのになぁ。今では絶対無理…と老いも感じながらイブの夜を過ごしている。


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