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温かな食卓

 少し前に、遠方に暮らす義妹から夫に電話があった。どうやら、義父のことで気になることがあってかけてきたらしい。話しを聞くと、お義父さまが夕食時に1人で食べることが多くて寂しいとのこと。家族団欒、和やかな食卓を希望しているらしい。このような話をお義父さまからではなく、お義父さま→小姑さま→旦那さま→嫁という規定ルートを通って耳に入るのが昭和世代っぽい。高齢者の発する『寂しい』はパワーワードだからなぁ。嫁としては気が重い。

 娘はもう高校生で、夫は仕事もあるし、なかなか全員揃って夕食をとるのは難しい。問題は、唯一夕食時に居合わせる私が義父と食事を共にしないことで、それが不満のようだ。話の流れから「それじゃ、これからはお義父さんと一緒に食べるね。」という言葉を期待していたであろう夫に向かって、「そうなのかー。でも、むしろこのままで!」と期待に反する返事をした。夫は少し驚いた顔をしたけれど、『毎日、更年期特有の体調不良を引きずりながら仕事をして、自宅に帰って家族の夕飯の支度をするまでで精一杯で、いったん自室で横になって休憩しないと身がもたない。』との意見に納得してくれた。
 
 でも、それもほんの2割くらい。本当のところは『お箸の音』。食事を終えるとお義父さまは、お膳にお箸を『食ってやった』とばかりに投げ込むように置く。いや、ほぼ投げ込んでいる。いつも、投げ込まれた箸と讃岐彫のお膳がいい具合にカラーンッと乾いた高い音を立てる。私には、それが黒板を爪で引っ搔いた音のように神経に障る。この音に意識が向くのは家族のなかで多分私だけ。他の家族は耳にすら入っていないかもしれない。
 
 我が家では、食事は銘々にお膳で出すのだけれど、お義父さまのお膳を下げる時に、お箸が箸置きに揃っていることはない。そして、お箸と一緒に箸先についたマヨネーズの淡い黄色だったり、照りのある煮汁の茶色だったりの汚れがペタッ、ペタッとお膳の上に飛び散っている。何故、箸を箸置きに置かない…。お義父さまにお願いすればいいのかもしれないけれど、お願いするまでもなく、そのような場所からはそっと身を引くのが一番。だって、問題は箸使いではなく、無意識に所作に出てしまう何か…の問題だから。結局は、お義父さまのお世話はキチンとやるから2人で夕食を食べるとかマジ勘弁。というのが正直なところ。
 
 それに、家父長制下での温かな食卓とか、団欒とか、実は限りなくフィクションに近いノンフィクションかもしれない。天気やニュースの話から始まり、ちょっとした出来事など、タイミングを見計って挟みながら、時には食後に熱いお茶を煎れ、果物などのデザートを添えて長々と団欒を楽しむ。「お義父さま、実はこれ演出なんですよ。ふふふっ」と微笑んだらちょっとしたサスペンスになるかもしれない。1人で食事をとるのが寂しいお義父さまと、1人で食事をとるのが清々する私。この温度差はどこからくるのだろう?「気兼ねなく過ごせる家庭はイイものだ。」と迷いなく言える人は、気分良く歌を唄うジャイアンのように何も気付いていない。その陰で右往左往している人が居ることを。共同生活で、自分ひとり気兼ねなく悠々と過ごして「家庭ってイイよなぁ…」なんてあるわけがない。必ずどこかで誰かがバランスをとっているものだと思う。というより、お互いを尊重し合い、暮らしのなかで発生するズレや歪みをその都度、微調整しながらバランスをとって生活するのがイイ家庭だと思う。家父長制での長たる人が言うイイ家庭って何なのでしょうねぇ…。
 
 そういえば、お義母さまも生前は随分遅い時間に、1人で母屋のお勝手にある丸テーブルで食事をとっていたのを思い出した。「1人で食べる方が清々する。」とも言っていた。あの頃のお義母さまは、今の私の歳より二つ、三つ上くらい。そして、その数年後に「ご苦労なさって…」と嫁にとって最高の賛辞を送られ、早々とあの世に旅立ったんだよな…。


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