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①日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -小学校編-

つい先日、“ダブルリミテッド”という言葉を知りました。

ダブルリミテッドとは、二言語を使用する環境にいるが、両言語共に年相応のレベルに達していない状態ことを指します。(セミリンガルもしくは限定的バイリンガルともいいます。)

例えば、日英バイリンガルの10歳の子どもが、どちらの言語も6歳くらいの能力であった場合、ダブルリミテッドの状態です。

https://himetaro.com/eigo-soukikyouiku-demerit

これを読んで「あっ、昔の自分、これだった!」とピンときてしまったのです。

今現在の私は通訳や翻訳のお仕事がいただけるくらいには日本語もタイ語もスピーキング、読み書き共にできますが、どちらが得意かと聞かれたら答えは日本語です。日本語ネイティブと言って良いでしょう

そんな私も振り返れば小学校低学年くらいまではどっちつかずでした。

良い機会なので自分の日本語とタイ語能力の歴史について振り返ってみたいと思います。

この記事で私のnoteをお読みいただくのが初めての方もいらっしゃると思うので簡単に自己紹介します。私の生態を既にご存じの方はすっ飛ばしてください!


母タイ人、父日本人。

<タイ人母>
日本語能力ゼロで日本での生活スタート。父家族より差別やいじめに遭い、異国での孤独な子育ても相まってヒステリック発症、鬱寸前に。私のタイ母とのコミュニケーションはタイ語と当時日本語学習中だった母のカタコト日本語。日本の学校からの配布物等、母はほとんど読めなかったので小学生の私が担当。

<日本人父>
単身赴任で年数カ月しか家にいない。自身の親族の妻へのあたりが強いことに気が付きながらも親族に逆らえず、傷ついた母を放置し夫婦仲大炎上。子供である私に対しては良くも悪くも放任主義。私との会話は日本語オンリー。

長年不仲であった両親、私の大学進学時頃より別居開始、昨年熟年離婚する。関連記事:日タイ国際結婚の両親が離婚した両親の不仲について思うこと(←クリックで記事にとべます。)

<私日タイハーフ>
物心ついた頃より不仲の両親を目の当たりに。両親の間に入りコミュニケーションの橋渡し役、大喧嘩中で互いに直接会話をしたくない両親のメッセンジャーとなる。不機嫌な大人たちの間で育ったせいか幼少より大人の顔色を伺うことが癖に。
タイ生まれ~小学校高学年になるまで親の都合でタイを行ったり来たり~日本の大学を卒業しタイに帰国、就職。
初言語はタイ語だったが途中から日本語の方が得意になる、と同時にタイ語能力が幼児レベルでしばらく停滞するが大学生の時に巻き返す。参考:タイと日本どちら寄りか?という質問


~小学生低学年時の語学能力

日本語でもタイ語でもコミュニケーションをとれるが、単語によってはそれが日本語なのか?タイ語なのか?の区別がつかない、時々イントネーションや語順がおかしいことがあるという状況。また、双方共に同世代の子供と比べて圧倒的に語彙力に乏しかった。

例)日本語を話す時に語尾がタイ人のように上がってしまう、タイ語を話すときに動詞等の語順が日本語風になる、知らない単語が多い、単語のチョイスが幼稚などなど

どちらもできて、どちらもできない状態だった。

ターニングポイントは小学四年生だった

もともと小学校でも国語への苦手意識はあった。だがそれは他の教科に比べたら出来が悪い、という程度で特に深く考えることもなかった。
が、小学校の授業で薄っすら感じていた苦手意識は、小学四年生頃に中学受験のために塾に通い始めたことにより偏差値や順位といった数字で可視化されることとなる。「国語ができない自分」と嫌でも向き合わなければならなくなった瞬間であった。

受験のために足を引っ張っている国語を強化する必要がでてきたのと、それまでタイと日本の行き来が多かったが日本に定住するようになってきたこともあり、以降大学生になるまでタイ語は完全放置で「国語を伸ばす」ことに全振りしていくこととなる。

小学四年生の私は日本で中学受験を受けるために塾に通い始めた

上記の通りやはり国語の出来が悪かった。
暗記さえすれば点数を取れる教科は何とかなった。人並み、いや教科によっては平均以上にできた。

そして一つ気が付いたことがあった。
それまで漠然と「国語ができない」と思っていたがそうではなかった。

出来ないのは長文読解と記述問題だった。


私が通った小学校は、進学校でも何でもない田舎の公立の小学校。学校の授業だけではどんな風に国語が出来ないのかを知るには少々無理があった。

国語の点数が悪かった原因は、長文を読むのに時間がかかり時間切れで解けなかった、ケアレスミスを頻繁にしてしまったからではない。

時間をかけて、何度同じ文章同じ段落を読んでも内容が頭に入ってこないのだ。筆者が何を言いたいのかが分からない。解説を読んでも納得できないしそもそも解説の文章自体もよく理解できない

自分はどうしてこんなにも頭が悪いんだろうと思った

当時の私は自分の置かれている状況が分からなかった。
どうしてこんなにも読解問題が解けないのか、何をどうすれば解けるようになるのかが分からなかった。他の教科は記憶すればどうにかなったが国語だけは本当に対策のしようがなく、選択式の設問であれば神頼みであった。

解説を読んでも分からないなんて、自分の脳みそは相当やばいのではないかと思った。先生に解説された時、分からないと言うのが恥ずかしくて分かったふりをした

選択式試験の罠で、時折まぐれで高得点をたたき出すことがあった。集中力の問題なのかもしれないと錯覚させられた。一向に文章を理解できない自分に嫌気がさして、出来ない根本的な原因は分かっていないのにやればできるんだと自分を洗脳鼓舞し始めた。

コミュニケーションは普通に取れていたし、日本語を学習する外国人にとって高難易度の「てにをは」の使い方も自然だったせいか、傍から見れば私はただの一国語が苦手な日本の小学生であった。

あの時、私が置かれている語学発達状況について諭し導いてくれる大人がいたら、私の人生は大分変わっていたかもしれない。

差別といじめ、異国での孤独な子育てで余裕のないヒステリックな鬱寸前母、単身赴任で子供の教育にそこまで思い入れがなかった父のどちらも、私が抱えていた問題に気がついてくれなかった。会話は普通にできるから「ちょっと国語が苦手なタイプなだけ」と思われたのだろう。

タイ語を使う機会

それまでタイと日本を行き来することが多かったがこの頃になると私が塾に通い始めたのもありほぼ日本で過ごすようになっていたのと、母の日本語も少し上達してきたのもあって、タイ語に触れる機会はめっきり減る。

家でタイ語を話す機会があると言っても家庭内で使う日常会話レベルに限られ、同世代のタイの子供のタイ語レベルとどんどん乖離していく。

当時はスマホやYouTubeなんていう便利なツールはまだ世に存在していなかったので、日本在住の私はタイ語をインプットする機会を持ち得なかった
アウトプットする機会もかなり限られ、家での母との会話か、今や過去のものとなっているであろう国際電話カードという代物を使ってたまにタイの実家に電話して通話時間を気にしながら駆け足でタイの親戚と話をする時くらいしかなかった。

私のタイ語の発達はこの時点でストップ、いやむしろ使う機会は減る一方だったので、以降大学生の時に挽回するまでどんどんマイナス成長していく。

そんなこんなで迎えた中学受験本番

やればできると騙しだまし自分を鼓舞しながら塾に通い続け、ついに迎えた中学受験。
この中学受験で人生レベルでトラウマとなる大大挫折を味わうこととなる。


つづくよ。

つづき→日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -中学高校編-


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