見出し画像

②日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -中学高校編-

この記事は、①日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -小学校編- の続編です。

ついに迎えた日本での中学受験。
この中学受験で以後長い間トラウマとなる大大挫折を味わうこととなります。


滑り止めにも滑り止まらなかった中学受験


自分の偏差値を考慮してチャレンジ校から滑り止め校までを選んだはず。
それなのに、一つも受からなかった

塾スタッフとも相談して出願校を決めたため無謀な学校チョイスではなかったはずだ。でも全部落ちた。

何がダメだったのか分からない。
日々くる不合格通知に精神が参ってしまいそうだった。

両親や塾スタッフの頑張れという声援の裏に隠しきれていない同情と不安心を感じ取り、私の辛さと惨めさは倍増した。子供は思っているよりも大人をよく見ている。

地元の公立中学が荒れていたこともあり、どうしても私を私立の学校に入れたかった母は、その時点で出願可能だった、自分は聞いたこともないまるで知らない学校を受験することになった。

幸いにして、この急遽受験したノーマークだった学校には無事に合格することができ、私の中学受験は終わった。

※後に地元の公立中学で放火騒ぎが起きたり、少年院に送られる子供がでてきたりしたので当時の母の嗅覚はすごかったと思う。(地元荒れすぎw

中学一年生の時点で大学受験を見据える


晴れて中学校に入学した。

周りが中学入学に浮足立っている中、次に“受験”しなければならない機会はいつ訪れるのだろうと考える。

大学受験だ。

※入学したのは中高一貫の学校だったので、高校受験はありませんでした。

もう二度と中学受験の失敗を繰り返したくなかった私は、中学一年生の時点で大学受験に失敗しないように中高6年間を過ごさなければならないと燃えた。

とにかく活字を読みまくった


本をたくさん読むと国語が出来るようになるし頭が良くなるらしいと小耳に挟んだ私は、小説でも漫画でも、歴史本でも何でも、とにかく日本語で書かれている読み物であれば出来るだけたくさん読むようにした。

スラムダンクとワンピース以外の本(漫画)がない家庭だったので学校の図書館に大変お世話になった。

努力が功を奏す

学校をそれなりに楽しみつつ勉学に励む学生生活を過ごしていたが、日本語の上達を実感したタイミングがあった。
高校2年生の時だった。

国語の授業で、テーマは自由でオリジナルの読み物を書いてくるという課題があったのだが、なんとそこで優良作品として選ばれたのだ。
数十人のクラスメイトがいる中で、国語に劣等感を抱えてきた自分が書いたものが選ばれた…

下校中に色んな感情が押し寄せてきて我慢できなくなり一人泣いた。
中学入学から高校二年生までの期間で、日本語能力を遜色ないレベルまで引き上げることに成功したようだ。

一方その頃のタイ語は・・


中学高校時代、タイやタイ語に触れる機会はごく僅かとなっていた。
よく帰省していたタイには学校や部活動の都合で帰る頻度が減った。タイの家族とも一時的に疎遠になる。

日本生活が長くなり日本語が上達した母は日本語とタイ語をまぜこぜで話すようになった。※ルー大柴のタイ語と日本語バージョンを思い浮かべて下さい。

頭で少し考えてからでないとタイ語が出なくなってきた。リスニングの方はまだいけた。でも急に喋ろうとすると詰まる日本語⇄タイ語の脳内切り替えが上手く機能しない。
こんな調子で大学生になるまでタイ語は後退が続く

(母が一切日本語を使わず、私とはタイ語のみで会話していたらまた違ったのかもしれないと思ったりする。)

6年ぶりの“受験”


大学受験を迎えた。

中学受験時のトラウマから、第一志望校から滑り止めの滑り止めまで満遍なく受けた。

あなたの偏差値ならそこまで受けなくても…と言われた大学まで受けた。
またどこにも受からないのがたまらなく怖かった。

第一志望の大学に受かった


第一志望の上智大学に受かった。受けた大学、全て合格だった。

18年間生きてきて、これが初めての成功体験だったと言っても良いかもしれない。

なぜ上智大学が第一志望だったか


理由は二つあった。

一つ目の理由は、上智大学は早慶と違い付属校がないから。
私が通った中高は初等部もあり、中学から入学した私は既に出来上がっているコミュニティに入っていかなければならないのが肌に合わなかった。だから付属校のない大学を選んだ。(がしかし入学後、中高と大学ではあまりに規模感が違いすぎるため、この心配は取り越し苦労だったと悟る。)

二つ目の理由は、漠然とインターナショナルなイメージがあったから。
実際に入学してこのイメージに間違いはなかった。外国人やハーフの学生にたくさん出会えた。日本人であっても海外に興味のある子や外国にプラスのイメージを持つ子が多かった。私はハーフを隠すことなくのびのびとすることができた。自分が自分でいられる環境がとても居心地良かった

大学に入学した私は、水を得た魚のごとく生き生きとし始め、その後の人生が大きく好転し始める。

長らく放置し幼児レベルで止まっていたタイ語力は大学生活中に巻き返すこととなる。

まだつづくよ。
(↓次の大学編で完結です。)
③日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話 -大学編-


余談


よく英語で「New Chapter of Life」とか言いますよね。

先日タイ人夫と、今の自分の人生は何チャプター目か?今までの人生、チャプターで分けたらどうなるか?って話をしたんです。

夫は18歳を迎えるまでに4チャプターあると言いました。それだけ節目となる出来事があったということですよね。

私はというと生まれてから高校を卒業する18歳頃までの人生で1チャプターでした。
自分の中で漆黒の第一章と名付けています() 18歳以降の人生をより豊かに生きるためのアンハッピーな下積み期間という位置付けです。

これ、案外自分の人生を振り返ってみる良いきっかけになります。今の自分は、自分人生史上の何チャプター目を生きているのか、考えてみると何か新しい気づきがあるかも。お試しあれ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?