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『一陣』第八章

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 父の遠島を知らされてから、俺は考えることを辞めた。空は高く、空気は冷えてきた。ただ寝て、食べて、仕事をすることにしていた。心がどこかへ消えてしまったような、締まりのない気分でいるのに、不思議と仕事ぶりは褒められた。いま俺にできることは、これしかないと、体が必死になっているのかもしれない。何かやることがあるのはいいことだ。それに集中していれば、頭の奥など死んだままで問題ない。いつぞや変な女に言われた言葉を思い出した。「人間泣けなくなったらなんにも無くなる」。今の俺には何があるかな。なんにもねえのかな。
 なんとなくふわふわした足取りで、俺はあの女が気になって仕事が終わってから長屋へ行った。庄助の隣、あそこの部屋だと目星を付けると――女が戸ごと道に吹っ飛んできた。
「だ、大丈夫、姉ちゃん。」
俺は驚きすぎて、気まずかった以前の別れ際など忘れ去り、咄嗟に声をかけた。
「あいつ、手加減しろってんだ。おい!本気で投げやがったな!」
「馬鹿野郎!俺が本気で投げたらお前の首なんざ折れてらあ!……いや、ただ加減は間違えた、すまん。」
何をしているんだこの二人は。痴話喧嘩には全く見えない。壮年の男が若い女を投げとばした?しかし女は了承済みのようだ。訳が分からない。
「……お前、いつぞやの泣いてた小僧か、すまないね、みっともないところを見せた。びっくりしたろ。また泣くなよ。」
「泣かねえやい!……な、なんで姉ちゃん投げられてんだ?」
「修練。」
それだけ言って立ち上がると土埃を払って、男のもとに戻っていった。
「こんな狭い長屋じゃやっぱり無理がないかい。どこか広い場所は無いのかい。」
「川べりは。」
俺はつい口をはさんでしまった。男がこちらを向いた。
「なんだ小僧、いたのか。川べりか、そうだな。妙な奴しかいねえが、それは俺たちも変わらねえしな。よし行くか。」
「こ、これから行くの。もう夜だ。暗いよ。」
日が暮れてから川べりに近づくやつなど普通はいない。夜鷹とか、聞いたことがあるけれど、俺くらいの歳の奴が行くようなところじゃないから分からないし、夜盗なんかもいるんじゃなかろうか。
「それも修練。」
女はさっぱり答えた。男が話しかけてきた。
「お前、よく隣の部屋ん奴訪ねてくる小僧だろ。隣は確か大店の番頭だったな。奉公でもしてんのか。」
「うん、丁稚です。」
男は粗野な雰囲気で、見た目も小汚く、気は合っているように見えるが、綺麗なこの女と懇意になるような者には到底見えなかった。女も乱暴な口ぶりだが、なんとなく所作に品の良さがあり、長屋には似合わない容姿をしている。
「番頭に目をかけてもらえるたあ、運の良い奴だな。」
なんにもしらないくせに、俺はそう思って少し腹が立った。庄助に目をかけてもらえることが幸運なことには変わりないのに。
「別に、俺は恵まれてない。」
「でもお前、奉公先があって、番頭には良くしてもらえて、食べるところも寝るところもある。十分じゃねえか。」
「別に寝食できれば恵まれてるわけでもないだろう。お城のお姫さんにだって不幸はあるさ。」
女が口をはさんだ。投げやりだったし、俺はお城の姫様なんか父を殺したも同然だから嫌いだったが、温かい助け舟のような、なにやら通じ合えるものがあるような気がする一言だった。
「まあ、人には人の、ってやつか。小僧、見てくか?こいつが投げられるとこ。」
「見ても楽しいもんじゃないだろう。」
女はむすっとして答えた。その表情を見ると、俺が思っているより歳が近いかもしれないと思った。ひょっとするとまだ十六かそこらかもしれない。なんだが腹の据わった空気を持っているので年増だろうと思っていたが、顔立ちや体つきをちゃんと見るともっと若いようだ。俺は降って湧いた珍事に乗ってみることにした。久々に心がここにある気がする。
「行く。」
庄助のところに行くからと大目に見られている外出だが、そうではないとばれたらあの嫌味な子供頭に絞られるだろう。そうは思ったが、好奇心が勝ってしまった。
「お前も変な奴だね。名前は?」
「豊ま……豊吉。」
店での呼び名でなく、久々に本名を口に出した。そうだ、俺の名は、父からつけてもらった俺の名は豊吉だった。自分を取り戻した気分だ。
「豊吉か。私のことはお通とでもお呼び。あの不精な男は紋治郎だよ。」
「お通…さん。」
「お通でいいよ。」
聞きたいことは沢山あったが、切り出し方が分からず黙ってついていった。
「それにしても、妙な三人が集まったもんだねえ。」
女が空を見上げた。俺も見上げてから、そういえば暫く空など見ていないことに気づいた。
 この空の下に、父もいるのか。

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