見出し画像

「優等生」を背負わされてきた私が感謝を伝えたい人


親には申し訳なくて言えないが、私の学生時代は最悪だった。

私はさして勉強が好きだったわけではない。だが、「テストでいい点をとる」ことが好きな生徒だった。本来の私はドンくさくて要領も悪いのだけれど、先生が言っていることを理解することは得意だった。だからテスト前に集中して復習すれば、そこそこ高得点がとれるということを小学生の頃には知っていた。

だが、中学生になって「いい点を取る」ということが、実はとても危険なことだと気づいた。

背負わされた「優等生」に苦しんだ学生時代


テストでいい点をとっていると、あいつは頭がいいというラベリングがされる。(実際には頭がいいのではなくて、テストが終われば覚えたことが消えていくから丸暗記が得意なだけだったのだが。)それは様々な弊害を私の学生生活にもたらした。

「ガリ勉」と呼ばれて馬鹿にされたり、授業中に先生からよく当てられるようになって先生のお気に入りだと噂されたり。色々と不快な思いはしたけれど、最もきつかったのは教師からの「優等生扱い」だった。

本来、優等生であることは良いことだと思う。しかし、私は別に優等生なんかじゃないことを多くの先生は知らなかった。私はテスト前だけ勉強を頑張ってるような生徒だったし、リーダーシップもなければ明るさや積極性もない。みんながやっているように、先生の目を盗んでお菓子を食べたり、帰りに寄り道したり、制服を着崩したりしたいだけの平凡な生徒なのだ。

だけど、私が通っていた学校は校則が厳しくて、帰宅途中の寄り道は禁止、お菓子も禁止、スカートの長さは膝上〇cmまでという具合だった。時には頭髪検査があり、地毛が明るい子は事前に申請書を出しておかないと髪を染めている容疑がかけられるのだ。

その頭髪検査の折に、みんなは髪の検査だけなのになぜか私だけスカートの長さをチェックされることがあった。長さは規則を守っていたから良いのだが、わざわざスカートのウエスト部分に折り目がついていないかをチェックされたのは相当な衝撃だった。それはつまり、「こいつはスカートを短くしていた形跡があるか?」を疑われていたということ。

スカートは初期値の長さだとあまりにも長すぎてさすがに身だしなみとしておかしいので(というか正直ダサい)、ウエスト部分を2段階くらい折って長さを調節していた。逆に言えば2段折っても校則には触れないくらいの異様な長さがあったのだ。しかし、ウエスト部分を折るというその行為自体がダメだと注意されたあげく、なぜか母親にまで報告されるハメになった。

その時、教師に言われた言葉はこうだ。

「信頼を得るのは時間がかかるが、信頼を失うのは一瞬だ。お前はたった今、その信頼を失ったんだ」

私はただただ悔しくて泣いていた気がする。別に規則を破ってるわけじゃない。なのにどうあっても私を先生の思い通りの生徒=「優等生」に引き戻そうとする。それを叱る言葉がありもしない「信頼」なのか?そんな思いが言葉にはならずに涙にしかならなくて、ひたすらに情けなかった。

さらに衝撃的な展開は続く。私は当時、学年の中では若干、やんちゃな女の子と行動を共にしていた。私がスカート丈を短くするなど校則に反するようなことをする(何度も書くが、別に校則は違反していない)のは、その子と一緒にいるからだ。その子に命令されて逆らえないのだというようなことを教師から母親宛てに伝達された。

私とてつるむ友人くらい選べるし、いくら命令されていたとしても自分の行動は自分の意思で選べる。私の声は完全に無視されて、憶測だけで判断され、私本人じゃなくて母親に連絡してくる教師の対応にはうんざりしていた。

こういうことがあって、ただでさえ友人関係などで疲弊しやすい中学・高校生活は暗黒の時代だった。いつもいつも、「私だけ何で。。。」という気持ちは晴れなかった。

私は別に優等生なんかじゃない。真面目なんかじゃない。みんなと同じようにゆるく楽しく学校生活を過ごしたいだけだったのに。

「普通」なんてものは存在しないと思う。でも、当時はとにかく「普通」に恋焦がれた。私がもっと普通の生徒だったら、みんなみたいだったら、先生も自分自身を見てくれたのではないかと。

高1の春。音楽教諭の担任との出会い


私が6年間の中学・高校生活で最も楽しかったと言えるのが高校1年生のクラスだった。運よく友達に恵まれたこともあったが、何より担任が良かった。

その先生は以前にも音楽の授業で習ったことがあったが、担任として受け持ってもらうのは初めてだった。学校の吹奏楽部の顧問もしていて部員からは相当嫌われていたが、私には救いのような先生だった。その先生を、ここでは便宜上Y先生と呼ぶ。

Y先生はもちろん私の成績を知っていたが、決して私を「成績優秀な生徒」として扱わなかった。他の生徒たちと同じように分け隔てなく話をしてくれるし、私のしっかりしてないところ、ダメなところも受け入れてくれた。年代がばれそうだが、当時前髪をとめるダッカールみたいなものが学年で流行っていた。校則的にはグレーだったが、私がいつもそれをつけていることを褒めてくれた。

Y先生は、締めるべきところと緩めるべきところをよく心得ている先生だったと思う。何でもかんでも厳しく叱りつけるのではなく、度を超えたものには「ダメなものはダメ」と対応していくような人だった。

だから、私はその先生のもとでは非常にのびのびとしていた。Y先生になら愚痴も話せたし、これまでは地雷だった成績の話も堂々と出来た。体育で評価3をつけられてムカつくとか、この点数は気にくわないとか。優等生とは違う、自然体な自分でいられたと思う。のちに私が進学することになる大学を勧めてくれたのもY先生で、どうも私の雰囲気に合っているからという理由で紹介してくれたらしい。それがまた大正解で、大学生になった私は中高とは打って変わって天国のような4年間を過ごすことになる。

このエッセイを手紙に変えて


高校1年生以降、Y先生が私の担任になることはなかった。接点も減り、そのまま卒業してしまったが、今でもあのオアシスのような1年を過ごせた恩義が忘れられない。

今となっては、感謝の気持ちを先生に伝えることが出来ない。まだ先生をやっているのかすら怪しい。だけど、私はこの経験をこれからも忘れることはないだろう。Y先生に出会えていなかったら、私にとって学校生活は大人への反骨心を育むだけの時間になってしまっていただろうから。正直、学校生活には幼いころから悩みが尽きなかった。そんな私でも、たった1年とは言え楽しかったと言える経験ができてよかったと心から思える。この1年を授けてくれた先生に対して感謝の気持ちが消えるはずがない。

こんなひねくれた思いを抱えながら過ごしてきた学生時代。その時の私はこうした思いの1つ1つを誰にも吐き出せなかった。感謝の思いすら伝えずに卒業してしまったし、私のこんな気持ちを先生も知らないだろう。私があの辛かった6年間を振り返るとき、必ずと言っていいほど思い出すのはありのままが受け入れられた高校1年生の頃の記憶だから、このありがとうをここに残しておきたい。感謝のエッセイを、手紙に変えて。

この記事が参加している募集

#忘れられない先生

4,597件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?