見出し画像

大学編入記5-大学に入ったら魔王になった話-

 テストとレポートが忙しくて週一だったはずの更新が遅れてしまいました。最終回です。編入記の締めくくりとして、私が考える大学での学びについて書こうと思います。

今までのあらすじ:高校卒業後に入学した大学で自分を見失った私は魔王になってしまいました。しかし、他大学に編入したことで「大学で学びたいことを学ぶ」という本来の目的を達成し、荒んだ心には再び平穏が訪れ、そして人間へと戻ることができました。今ではすっかりキラキラ女子大生です。嘘です。

 大学での学びについて、まず、私は「勉強」と「学び」は区別されるべきであると考えています。「勉強」は「勉め強いる」と書くように強制的にやらされるものです。日本における小中学校の義務教育がこれにあたるのではないでしょうか。勉強したいから小学校に行くのではなく、国が子どもに教育を受けさせるために、子どもを学校に通わせるのです。小学校中学校の段階で勉強を楽しめる人もいますが、一方で勉強がつまらないと思う人もいるでしょう。そして、そのような受動的な生徒に向けて、先生にはできるだけ分かりやすく教える義務があります。

 しかし、大学でやるべきことは、勉強ではなく「学び」です。私自身の定義ですが、「学び」とは自発的で、楽しいと同時に複雑なものです。面白いから、楽しいから、やりたいから、自ら選んで大学で学ぶのです。とはいっても、テストやレポートは勉強の一部なのではないかと考えています。私は勉強が苦手なので、最初に申告した通り、テストやレポートは〆切ギリギリに手をつけて毎回苦しんでいます。この前はMoodle上で〆切の1秒前に課題を提出しました。ギリギリでいつも生きていたいのでしょう。このナミダナゲキ未来へのステップ。ここで私が言いたいのは、勉強は苦手でも学びは楽しいということは有り得るということです。私はテストやレポートの点数や評価が低くても、学ぶことに面白さや楽しさを感じています。そして、それと同時に難しさも感じています。ここも勉強と違う点なのですが、学びに明確な答えはありません。ですから、「大学は高校の延長線である」「大学は勉強をする場所だ」と思ってしまうと、大学での学びに明確な答えを探す故に物事を短絡的に考えてしまう恐れが生じます。物事がそんなに単純明快ならば、この世に宗教や哲学は存在しないでしょう。物事にはいつだって、考える余地があります。分野を問わず、物事の複雑さに踏み込み、知的欲求を途絶えさせないことが大学の学びなのではないでしょうか。

 これまでに述べた通り、私は大学に「学び」を求めています。一方で、そうではない大学生も多くいるでしょう。卒業に必要な単位を最低限の労力で取り、就活にエネルギーを注ぐ大学生が典型になっている気もします。大学での過ごし方は人それぞれですし自由ですが、学びを求めない学生が主流になってしまうことは問題なのではないでしょうか。つまり、大学側が学びを止めることを促進してはいけないということです。分かりやすい講義をするべきだということではありません。大学が学びを提供する場である以上、大学側は授業やシステムを形骸化させることなく、学生に知的好奇心と考える余地を与えるべきなのではないでしょうか。

 私は今、大学で学びたいことを学べていると感じていますし、周りにも学びに対して意欲的な人が多いです。これはテストやレポートで良い評価を貰っているということではなく、常に何か複雑な問題について自発的に考えようとしている、ということです。大学を卒業したら、仕事に直結する実践的な知識以外は、学んだ内容などほとんど忘れてしまうでしょう。しかし、自発的に、知的欲求心に基づいて、答えのない問題を考え抜いたことに価値があるはずです。

 最後にまた、私が好きな太宰治の言葉を『正義と微笑』から引用します。

「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。」

 以上、長々と書いてしまいましたが、私の編入記でした。最後までお読みくださった方々、本当にありがとうございます。私はこれからもキラキラ女子大生としてギリギリに生きて行こうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?