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17時間の山頂アタック

本日2020年5月23日です。7年前の今、ついにエベレストの山頂に着きました!皆さん私どものエベレスト登頂に付き合っていただきありがとうございました。いろんなトレーニング、エクササイズしたと思います。一つの夢の頂上に立ちましたけども、これからがまたさらに新しい夢に向かって、お互いにチャレンジしたいと思います。皆さん、お付き合いいただきましてありがとうございました。

本日のMIURA流クライムビクス

※最後のトレーニングですね!メイン運動のみですが、ザックを重たくして行なってみましょう!

  ①階段のぼり・・・23階分、もしくは踏み台昇降・・388回分 
 ※もしくは以下の②か③より選択してください 
  ②ウォーキング・・・2.1km
  ③スロージョギング・・・12分間(6分間×2セット)  

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−2013年5月23日−  

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三浦雄一郎の遠征日記 

~5月23日17時間のサミットプッシュ~

8500mのバルコニーのテントを出る。幸い天気は良さそうだ。先頭は倉岡。フィックスロープにユマールをかける。時おり突風が吹き、ちょっとした吹雪を巻き起こす。

すでにサウスコルから昨晩の9時頃に出発したであろう登山者達のヘッドランプが頭上に見える。気が遠くなるほど高い。星まで続いているようなヘッドランプの光が、夜空の孤空の遥か高みに、小さくポツンと光っている。エベレスト本峰に取り付く前の南峰が、夢の世界にそびえる高峰として夜空高く突き刺しているようだ。

足元は沈みやすい粉雪。すでに大勢が登っているはずなのに、マイナス28度の粉雪はサラサラで、一歩登るごとに足元が沈んでいく。まさに蟻地獄、苦しいなんてもんじゃない。せっかく30cm登った途端に20cmズルリと崩れ落ちる。ここは酸素が地上の3分の1しかないデスゾーン。加えて50度から60度の稲妻のように細い急斜面の稜線。

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5年前は南峰の氷の壁が崩れたり解けたりして、オーバーハングの岩稜でひどい目にあった。まさか地上8600mでの岩登りになるとは思わなかった。体力も限界、わずか50cmのオーバーハングの岩場を全力で振り絞っても登りきれず、2回、3回、5回とやり直して最後は、まさに火事場の馬鹿力。どうにか、最後の力を振り絞ってやっとのこと登りきった場所がいくつもあった。今回はその代わりに蟻地獄のような雪の沈み。これはこれでまた苦しい。

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やっと地平線から太陽が昇り始めた。南峰の岩場を登りきった辺りで、先行し登頂した登山家達が下山してくる。今日はラッセル・ブライスのチームが7名ほど登頂したようだ。倉岡はラッセルの隊でガイドをやっていたから、「ハーイ、ヒロ、ヒロ」と大人気。BCでしょっちゅうテントに遊びに来てくれていた中国の登山家、ワンウェイさんも登頂成功のようだ。酸素マスク、ゴーグルをしながら私たちに「ガンバレ」と言ってくれている。私達も彼らに「おめでとう、コングラッチュレーション」と、お互いにマスクの中から叫びながら、固い握手を交わす。

ヒラリーステップを登り、3つほどの大きなうねりを越えたら、山頂が見えてきた。頂上のまわりには5色のタルチョやら旗やら、狭い頂上のまわりにちらばっている。

とうとう、着いた。

80歳と223日。80歳を越えてまさかエベレストに登れるとは!3度目の山頂。それも70-75-80歳。さらに親子同時での2度目の登頂は世界で初めてだろう。酸素マスクやゴーグルを外して素顔の写真をしっかり撮る。2008年の時は涙が出るほど辛かったけど、嬉しかった。しかし今回は、ともかく有難う、みんな有難う、世界に向けて有難う。シェルパ達も大喜びで記念写真を撮っている。

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快晴の山頂からは世界が見渡せる。6000mあたりに雲海、そこを突き抜けてヒマラヤジャイアンツのピークがそびえている。本当は山頂に20分以上はいない方がよいと言われていたが、気づいたらマスクを外してもう40分以上もうろついている。それでも夢中になっているせいか、そんなに苦しくはなかった。

もう再び、エベレストの山頂に来ることはないだろう。ただ、3度目の山頂は最高の気分だ。


三浦豪太の遠征日記 

~80歳でエベレストの山頂へ~

昨日はあまり眠れなかった。4人一緒のテントというのはいくら8500mとはいえ暑い。寒いよりはよっぽどいいが、結局、これからのアタックの興奮と身動きのできない暑さのため、12時にシェルパが起こしてくれるのが待ち遠しかった。起きて最初にしたのは大便である。酸素なしで外に行き、しゃがみ用を足して帰ってくるのはどんな作業よりもつらくて苦しくて死にそうになる。でも、排せつができているというのはこれまでの栄養状態がいいということだ。

小さなテントの中で各々の準備を始めた。外は無風快晴、絶好のアタック日和だ!!!準備をしている最中にも多くのヘッドランプがテントを照らして過ぎていく。彼らはC4のサウスコルからアタックかけている人たちであり、僕達の目算ではもっと遅くにここを通り過ぎるはずである。僕達は標高にして500mのアドバンテージがあるはずだ。登頂時刻を考えると12時に起きて、1時30分程度に出発すれば、集団の前に出るはずだが、彼らはもっと早くC4を出発したのだろう。結局僕達が出発した2時00分にはほとんどの隊が前にいて僕達は一番後ろだった。それでもそれがよかった。僕達の隊はカメ戦法でゆっくりと確実に上がる。その中で後ろからせかされたらたまったもんじゃない。

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外は以外に暖かい。薄いインナー手袋とノースフェースのウィンドストッパーを兼ねた5本指の手袋で十分に対応できる。先頭は倉岡さん、次にお父さん、僕、そしてシェルパ頭のギャルツェンと連なり、その後ろを酸素の予備を背負ったシェルパ達が続く。平出君が縦横無尽にカメラを持って駆け巡る。点々と続くヘッドライトのライン、最初は月明かりがはっきりと足元を照らすが、月もそのうち低くなり最期には遠くの低い雲の中にかげる。すると空に宝石箱を散りばめたように星たちの輝きを見ることができる。目の前のヘッドライト達も僕達を待っていられないというがごとく、どんどん先に進む。南峰かどこなのかこのライト達が先に行って知らせてくれるだろう。

昨日のウェザーニュースとのやり取りでは、夜から朝方にかけてもっとも風が吹くだろうというが、今のところその兆候がない。朝4時、うっすらとチベットの水平線が赤くなってきたと思ったら、急な冷え込みと風が吹き始めたので、手袋の上にミトンをかけた。お父さんの心拍数は思ったよりも安定している。しかし、昨日降った雪のせいで足元が不安定で、急斜面と段差に苦労しているようだ。スピードは出ないがゆっくりと確実に進んでいる。

しばらくすると、ロープになにかが引っかかっているのが見えた。それが人の遺体だと認識するのにちょっと時間がかかった。逆さに倒れているのだ。ロープは遺体に固定されており、ユマールをかけるのにその遺体に直接触らなければいけない。「いやだな」と思いながら思い直し、何の宗教かわからないのでアーメンやら、ナンマイダやら南無阿弥陀仏、アラーを念じながら通ろうとする。するとお父さんのユマールと安全クリップがこともあろうかその遺体の横に引っかかって動けなくなっているではないか。お父さんのユマールの掛替は通常、前にいる倉岡さんがやってくれるのだが、さすがの倉岡さんも焦ったのか、遺体にかかっているロープを巻き込んで安全クリップをユマールに着けている。これではいくらたってもほどけるはずがない。僕は「よりによってこんなところで」と思いながら、お父さんの近くに行って遺体を抱え込むように安全クリップを外し元のポジションに戻した。遺体を見返し、ここまでくればもう何も怖くないと思ったが、なんでこの方はここで力尽きたのだろうと思った。それほど昔のご遺体には見えない、せいぜい2~3日であろう。宗教に疎いながらも念仏を唱えながらそこを通り過ぎる。

夜もあけて、すっかり明るくなると、以外に南峰が近いのがわかった。南峰は8700mにあるもう一つのエベレストの頂上である。そこから一度下がって、今度は難所のヒラリーステップなのだが、ここまでくればひと息つける。南峰では多くの人に出会った。特にヒマラヤンエクスプレス(ラッセルブライス隊)とは交流が多く、彼らの登頂日もこの日に合わせていた。倉岡さんの親友である、田村さんにも頂上付近であう。先日、わがエベレストベースキャンプを訪ねてくれた、中国人のワンウェインさんとそのお友達、そして後から知ったことだが、パタゴニアブラザーズのダミアンにも会った。

ダミアンは「南峰は雪が多いから、南峰の手前で酸素交換したほうがいいよ」とアドバイスをくれた。彼らはすでに山頂を踏み、帰るところである。登頂の祝福とお互いの安全を祈ってみんなとすれ違う。今回、もっとも難題だったのがヒラリーステップの攻略である。ヒラリーステップはわずか5~6mでありながらオーバーハングしており、クライミングの技術と体力が試されるところである。僕は倉岡さんとこの攻略について話合い、一つの秘密兵器を用意した、それは滑車である。滑車とビレーをうまく利用して、お父さんのクライミングをアシストすることにした。ロープはそのあたりにある昔のロープを切ってお父さんにフィギュアエイトで結ぶ。お父さんが登った分は紐で固定されるのでそれ以上落ちることがない。20分~30分ほどかけやっとこことでヒラリーステップを上がる。

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さらにそこから30分、ゆっくりとエベレスト最後のビクトリーロードを歩く。ここからはよっぽど高度障害で足がふらついたり前に出ない限り山頂へは難しいところはない。セイコーの時計を見る。8:30分。十分に時間がある。ゆっくりと確かに、山頂への道を歩く。

9:00ちょうど。父は80歳という世界最高齢にてエベレストの山頂に立った!

無風快晴、頂上にはたくさんの旗がたなびいている。僕が10年前に来た時にはこんなに旗がなかった。山頂には中国側のルートから来たグループがいた。彼らも登頂の喜びの余韻に浸っているのだろう。僕達もやらなければいけないことを行うことにした。山頂に来た時のシミュレーションは何度もしていた。まずはお父さんと二人でベースキャンプに報告、その後日本に電話。お父さんの第一声を平出君に記録してもらう。その後、いくつかあるバナー撮影、シェルパ達との集合写真、メンバーの集合写真。そして、今回もっとも重要なのが、お父さんがマスクを外した状態で、山頂に立っているとわかる写真を撮影することである。これは父が80歳というエベレスト最高齢で登頂したというゆるぎない事実を記録として残すためだ。

僕はマスクを少しだけ顔から離すようお願いしたが、父はすべての写真撮りでマスクを完全に外してしまった。この高度でマスクを外して行動するのは危険極まりない。写真撮影の合間に、マスクを口に近づけて酸素を吸わせる。最後は平出君が頂上からの景色とマスクを外した父の映像を撮影した。これだけで50分ほど費やしてしまった。この高度だと、滞在が長引けば長引くだけリスクが高まる。

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兄からUstream をやってくれというリクエストがあったが、iphone を見てみると冷えすぎて起動しない。さっさとあきらめて下山に取り掛かることにした。

下りはのぼりとは装備の使い方が違う。ユマールはロープを一方的に登りのために使う。下りでは下降器、八冠やATCを使う。ヒラリーステップなどの難所も下りならばラペリングで簡単に降りれるが、お父さんの足元がおぼつかないため、常にシェルパや倉岡さんが周りについていないと転んでしまう。転んでもロープにつながっているため落ちはしないが、そこから立ち上がりルートに戻るのに時間とエネルギーがロスしてしまう。

考えてみれば、朝2時にスタートして今まで、ほとんど休んでいない。高所の活動はかなり疲労がたまるうえ、山頂でマスクを外したことも響いているのだろう。ヒラリーステップを降りると、水分補給と若干のお菓子を食べた。しかし、その後南峰を降り始めると、父の疲労はよりひどくなっていった。通常はロープを握りそれに体重を預けるだけの方が効率よく降りられる。しかしそれではバランスを崩すため、下降器を一つ一つつけて降りるようにした。

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しかし、下降器の欠点はロープにゆるみがあるときは使えるが張っているロープだと下降器は機能しない。それが、例の遺体の箇所に来た時である。遺体はロープにぶら下がっているため、ロープにゆるみができない。これだと下降器を使えない。どうしようと考えた。

そこで、紐を使ってそろりそろりと下す方法を提案した。いわばビレー方式である。しかし、倉岡さんは「そのロープはどうする」と聞かれたところシェルパのニマが偶然にも遺体がつながっている上部ロープにかなりのあまりのロープがあることを発見した。このロープを切り、父に結び付け、反対をユマールで固定して下降器につなげる。これで下りのスピードを制御しながら父を下ろすことができる。しかし、ロープの長さは10m弱。一気に下ろそうとすると下手したら、遺体の真横でロープの長さが足りなくなってしまう事態になりかねない。別にそれでもいいが、あまり気持ちのいいものではないのでゴルフの刻みのごとく、最初は5m、次は3mとすこしずつ遺体に近づけていき、最後は一気に遺体の横を抜ける作戦に出た。

僕の役割は父と一緒に降りて、お父さんに着けてあるロープがいっぱいになると、お父さんのユマールをフィックスロープに着け、そこで一度お父さんを固定する役割だ。これを数十度行いながら、下る。しかし、C5もやっと見え始めたころ、父の様態が激的に悪くなる。ほとんどまっすぐ歩くこともできず、ふらふらとしていて、時折座り込むと動けなくなってしまった。

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僕のイメージは先ほど通り過ぎた遺体だ。このままだとエベレストに飲み込まれてしまう。お父さんの目をゴーグル越しに見詰めてみた。まだ生気もあるし意識もはっきりしている。

ただ、足に力が入らないという。僕は脳浮腫も疑った。脳に体液がたまり運動と意識障害をもたらす。どうにか叱咤激励をしながら、C5まで無理やり連れて降りる。これはかなり危ない状態である。

C5はまだ高度8500m、十分高度もおろしていなければ、酸素も燃料も資材も十分あるところではない。このままお父さんを動かすことができなければ、ここで一晩を明かすことになるが、サーダーのギャルツェンに指示したC5の酸素デポの数は5本。これでは、僕とお父さんとシェルパ一人が泊まったとしても、明日下るまで十分な酸素がない。この選択におなかが冷たくなり、足元が揺らぐ思いであった。

すぐに大城先生に父の状態を相談する。大城先生から、父の意識の状態を聞かれた。父はテントの中に入り、お茶と赤飯を食べている父に「意識は大丈夫?」と聞くと、「ああ、赤飯と三浦ケーキがおいしいよ」と答えがあった。これでは本当に意識が大丈夫なのかわからない。大城先生から、「自分の鼻を人差し指で触れるか」ということを聞かれたその通りにやってみてもらうとしっかりと迷いなく人差し指が鼻を触った。

どうやら意識も運動機能も問題ないようだ。これはいわゆる「シャリバテ」だろうという結論に至った。シャリバテはいわゆる、腹が減りすぎて動けなくなることだ。朝から連続したハードな登山、斜面が急なのと酸素マスクをつけているので十分に水分も食料も補給できず行動続けたため、ばててしまったのだろうということだった。

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とりあえず、C5にて水分と食事を澄まして1時間後の経過を見ることにした。その時点ですでに4時近く。このまま、十分な休息をとったとしても、C4まで降りる時間があるかどうか…。

しばらくすると、父の顔に生気が戻ってきた。父に二人のシェルパを前後に着けて降りることにし、その後ろに僕が続く。彼らは半ば強引に父をフィックスロープに括り付け、ものすごいスピードで降りていく。父もそのスピードに負けまいと必死に足を動かす結局懸念していた時間は驚くほど速く、7時にはC4についていた。日没ぎりぎりである。

父は転がり込むようにテントの中に入り、寝袋の中に入った大城先生からの指示で十分に水分をとるようにと言われたが、すぐに寝息を立てて寝てしまったので、せっかく沸かしたお湯も全部僕が飲む羽目になった。朝の2時から夜の7時まで、行動時間にすると17時間、ふつうの80歳が動く時間ではない。

今日は幸い晴れた、とてもコンディションのいいエベレストだった。これが少しでも何かが違っていたらどうなっていただろうC5がなかったら、もっと寒かったら、少しでも父の体力が足りなかった…、いろいろなもしが頭によぎるが、感謝するべきは父の生命力である。よくあそこから復活してくれたと思う。


この1ヶ月間、ベースキャンプから山頂まで累計標高3890㍍に相当するエクササイズが終了いたしました。世界最高峰登頂の追体験をともに行い、目標に向かって身体を動かすことで達成した希望の頂きは目に見えぬ不安を乗り越える力となり、きっと次の夢の景色へと繋がります。 新たな一歩を! 三浦雄一郎&豪太

遠征日記は下山まで続きますので、引き続きお楽しみください!

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