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昔は「孤」だった。今は「個」である。

私は小学校3年生で隣町の小学校に転校してから、小学校の友達に親しい人がいない。

今思い返してみれば、「自分がここにいるのは間違っていると気づいているのに、一人になるのが怖くて、無理やりその輪に入ろうとして、でもやっぱり孤独で」の繰り返しだったのだ。

小学校は特別人数が少ないところではなかった。同級生と呼べる人はたくさんいるのに、いったいなぜ、わたしは馴染めなかったのであろうか。

「個」ではないもの

今日は「新成人のお祝い」という場を設けていただいて、小学校の同級生と話したり、写真を撮ったりした。相変わらず小学校の親しい友人はいない。
でも小・中と同じだったが、中学校で同じ部活で一緒に帰っていて仲良くなった友達や、小・中・高と同じで高校で初めて仲良くなった友達はいる。

その友達たちは私とは違って、ちゃんと話せる友達もいて、「グループ」にも入っていた。

この「グループ」というもの。わたしみたいな変な奴にとっては本当に厄介なのだ。特に日本は個性がある子を排除しがち。私は自然に除け者になっていたと思う。

でも自分が心地よいと思えなければ、「グループ」に入る必要はなくて。あのとき、「孤」ではなく、自分の「個」性に気づけていたらなと思う。だって合わす必要はないもん。合わせられていたかどうかもわからないけど。

輪に入りたい、みんなと仲良くしたいと思っていた時もそうであった。わたしは「個」人ではなく、その「グループ」ばかり見ていたのだ。
「この子は変なやつ」と思われていて、周りも仲良くしようと思わなかったのもあるかもしれない。
あるいは、そもそも周りはわたしに興味はなく、自分がそう思っていたから自分から無意識に壁を作っていたのかもしれない。

これは大人になるにつれてわたしが気づいたことであり、小学生の頃の私では気づけなかったことである。

「個」を尊重するにはどうすればいいのか

高校・大学とわたしは周りの人に恵まれている。
私を受け入れてくれる友達や大人の人もいるし、やりたいことは何かしらの方法で実験・実現できている。本当にありがたい。
わたしには、わたしの「個」を受容してくれる人が周りにいて、それを生かすことのできる舞台を作っていただいていたり、自分で作ったりしているのだ。

きょうはそのおかげで、小学校の頃よりは上手く生きれていたと思う。わたしは今まで生きてきて感じたこと、考えたことが今の自分につながっていると信じている。
だから、成人式のわたしは自分に自信が持てていたのだ。

だがやっぱり、「孤」は感じた。

あ、きた。この感じ。しんどい。

それが数秒ずつ、何回かあったのだ。

これは自分自身に問題があるのか、日本の教育や社会が生んだ「個の排除」の影響なのかはわからない。だけど、意外と私みたいに「孤」をどこかで感じている人は少なくないんじゃないかなと思う。

二十歳になって、いまは仲間がいて、自分を受け入れてくれる人がたくさんいて、「自分は変わったから」大丈夫だと思ったのに。

でも実は、「自分」が大きく変わったのではなかったのだ。自分の「関わる人」が変わったのだ。

成長していくにつれて、自分が属するコミュニティは1つじゃないんだ、大きく「コミュニティ」とみていたけれど、「個」を見るべきなのではないかと気づいた。
このことに小学生の自分が気づけていたら、もっと変わっていたのかもしれない、もっと選択肢を知っていれば変わっていたのかもしれないと思う。

無意識に自分のこころの隅っこにまだある、「孤」の感覚がフラッシュバックしてきてそんなことを考える。

でもほんとに、自分は自分でいいんだと思う。絶対に、この世のどこかには、自分自身を受け入れてくれるひとや場所があるから。

自分が嫌だと思うなら、その状況を抜け出すなにかポイントを見つければいいじゃない。安心でき、心地よくて、自分がイキイキできるなにかを。
それはひととの繋がりなのか、ことばなのか、経験なのか、なんなのか。それはその人にしかわからない。

まとめ

今回、これを書いたのはやっぱり「孤」の感覚がフラッシュバックしてくるので、それを整理しようと思ったからである。
また、生きづらかったこととそれをどう克服したかを書くことで、いま生きづらさや「孤」を感じている人の支えになればいいなと思ったからである。

わたしは「孤」を感じることが少なくなってきた。自分自身も誰かの「個」を尊重できるひとになりたいし、「個」に気づけたり、生かせる場づくりが出来たらいいと思う。

ひとりひとりの居場所は絶対、世界のどこかにあるから。

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