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小説・短歌・俳句の器

 こんにちは、みつこです。
 薄墨色の雲が空を覆う今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
 先日、高校時代の部活の顧問の先生とお会いしました。 
 そこでふと、高校時代に文芸部で話したことを思い出し、忘れないように記録します。

 とある俳句の大会前のこと。私の後輩が私に相談を持ちかけてくれました。

「先輩、この俳句どう思いますか」
「どれどれ、あーこれは器から溢れちゃってるね」

 私の言葉に後輩くんは不思議そうな顔をしました。
 それもそのはずです😅
 このとき、私はこの後輩くんに対して初めて「器」の表現を使ったのです。

 この「器」という表現は、私とその同級生と顧問の先生が別の俳句の先生に教わった言葉です。

 簡単に言うと、「器」とは、「自分の伝えたいことを入れるもの」です。
 これは、何かを創りだすことをしている人は経験があるかも知れませんが、韻文をしていると往々にして、

伝えたいことが、その韻文に対して多すぎ・少なすぎて、言いたいことはいいのに作品として成立していない

現象がおこります。

 俳句は五七五
 短歌は三十一文字
 小説は制限字数内


 とそれぞれ器が決まっています。
 私一個人の感覚としては、


 俳句はお猪口
 短歌は湯のみ
 小説はお茶碗


 くらいの大きさのイメージです。
 お猪口に入った水を、湯のみやお茶碗に入れても少なすぎて物足りません。
 また、お茶碗に入った水をお猪口に全て注ごうとしようものなら溢れ出てしまいます

 つまり、自分の伝えたいこと、表現したいことの量に合わせて器=韻文・散文の形式を、選んであげる必要があるのです。

 後輩くんはその後、その俳句の題材を短歌にしましたが、それでも伝えたいことが器から溢れてしまい、最終的に小説に行き着きました。
 先輩としての贔屓目もあるかもしれませんが、とても面白い小説でした。

 伝えたいことや考え方、感じ方も人それぞれ数多くありますが、それを伝えて発信する手段も色々あるのだなぁ、と実感した体験でした。

 もし、今の創作や表現に疑問や違和感を感じる方がいらっしゃいましたら、表現の方法を変えてみるのも、ひとつの打開策かもしれません。
 できた俳句を短歌にしてみて、もう一回俳句にすると新たな俳句になることも多々あります。




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