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noterになって1年が経ちまして


昨年の3月14日に初めて記事を投稿しました。始めはポツリポツリだった投稿がいつしか毎日投稿になり、noteの中にお友達も出来て、今やnoteは生活の一部というよりは生活の必需品。幸せなことです。

一年前の今日、私はドキドキしながら“記事を公開する”ボタンを押しました。押したら「あ、押しちゃった」って思ってもう戻れない気がして怖くなって。私は自分が書いたものが私の手の届かない遠くにいってしまった気がしました。それでも、2つめ、3つめと記事を書いていくうちに、怖さはだんだん無くなっていき楽しみがやってきました。遠くに感じてしまった私の書いたものも、気付けばそれは私の傍にありました。私の書いたものは私自身、私の分身だったんですね。

最近思うのは、毎日投稿してそれを読んでくださる方がいて、そうするとこっちはもうその“てい”で書いてしまう。例えば、私の旦那さんは我が家では“ちゃま”と呼ばれています。私の記事をいくらか読んでくださっている方なら“旦那さん=ちゃま”がわかる。でも、もしかして今日初めて私の記事を読んでくださった方には、「ちゃまって何だろう」という疑問が残る可能性大です。そこで私はちゃまのことを書く度に、()付きで説明を付けていたのですが、それを読んだ次女が、「毎回、毎回、ちゃまの説明はいらないんじゃないか」と言うのです。(ちなみに私はSNSに不慣れなため、下書きを次女が検閲してくれています。特に“言い方が感じ悪い”点については厳しく直されます。)確かに毎回説明を付けるのはめんどくさい。だけど、私としては誰が読んでも分かる内容にしたいと思うわけです。そこでプロフィール欄に「‥‥時々仕事と、旦那(ちゃま)の話」と入れてみました。初めて読んだ方で、ちゃまのことが何か気になってプロフィール欄に気づいてくれたら良いなぁと思って。


また、こんなこともありました。私が書いた“ことわざシリーズ”、その第3弾を読んでくださった方がコメントをくださいました。
「いきなりその③スタートになってしまい①も②も読みたいと思いました。とても面白かったし。でもどこにあるのかがわからない。note初心者なので、探すのに手間取ってしまいました。リンクが貼ってあると良かったかも。」確かに、と思いました。実は私は、自分の記事のリンクを貼るのがあまり好きではありません。宣伝しているみたいに思われたら恥ずかしいなあというのがその理由です。周りの目が気になる、O型さんですから。でもこのコメントをもらって気付きました。ずっと続けて読んでくださっている方には、あぁあれかとわかっていただけても、皆が皆、シリーズの①から読むとは限りません。私は少し不親切だったと反省しました。それから直ぐに①と②のリンクを貼り付けました。(ちなみに近々シリーズ④をアップします。)


誰のために書いているのか、と聞かれたら、自分のためと答えます。noteは自分の日記、あるいは備忘録という位置付けです。それでも、こうして記事を公開している限り、そこには読んでくださる方の存在があり、読んでくださる方に読んでいただくために書いている、というのもまた事実です。だとしたら、誰がいつどれを読んでも話の内容が分かること、これが一番良きことかなと思うのです。


始めた頃には考えてもいなかったような喜びや学び、そして悩み、リアルな世界では経験できなかった諸々を糧にして、これからもnoteを楽しんでいけたら良いなぁ。これが私の“今”です。


皆様、いつもありがとうございます。そしてこれからもずっとありがとうです。



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