短編創作「椅子」

 ある日、家具商人の店に初老の男が訪ねてきた。
 男は、以前から気になっていた玩具をようやく手に取った子供みたいな目で、店内を眺めていた。特に椅子に注目していた。店内に他に客はいなかった。
 随分と熱心に眺めていたため、商人はその男に「どんなものをお探しですか」と声をかけた。すると男は、
「時の流れを忘れられるくらい、心安らぐ椅子を探している」
 と答えた。
 商人は少し戸惑ってしまったが、できる限り上質で、座り心地の良いものを探しているという意味と捉え、この国で指折りの家具職人が手掛けた傑作のアームチェアを勧めた。
 しかし、それは男には気に入られなかったらしく、首を横に振るとまた別の椅子を眺めていた。釈然としない気持ちになったが、商人は気を取り直し、今度は年配の客には特に人気の高い、アンティーク調のロッキングチェアを勧めた。だが、それも気に入られず、男はまた別の椅子を眺め始めた。
 商人は思わず肩をすくめてしまう。良いものを提供しているはずなのに、すべてが空振りとなると打つ手がない。この歳の客なら金なんて持て余しているに違いない。ならその持て余した金を使って、値段が高くても少しは良い買い物をして、店に貢献してもらいたい。
 しばらく男が店内を見ていると、不意にこちらを手招きした。歩み寄ると、男はひとつの椅子を指さして「これが良い」と言った。しかしその椅子は、流行りの装飾もアンティーク的なセンスもない、とてもチープで貧相な木の椅子だった。
「失礼ですが、本当にそちらの椅子でよろしいのですか」
 商人の質問に対し、男は静かに微笑んだ。
「今の私には、これくらいが丁度いいのかもしれません」
 その表情を見せつけられたとき、酷く重い病にでもかかってしまった気分になり、何も言い返せなくなった。結局、腑に落ちなかったが、商人はその椅子を男に売った。

 後日、男の親戚を名乗る若い男性が、購入した椅子を引き取りに商人の前に現れた。
 その際、商人は、あの初老の男がほかのどんな高級な椅子よりも、この椅子を好んで選んだと男性に伝えた。すると、男性は言った。
「あの人は、心臓に病を抱えているんです。本当は、お金を投資すれば、治すことはできなくても、延命はできます。でも、母——自分の妻と同じ病で静かに最期を迎えられるなら、本人もそれが一番だと考えたのかもしれません」
 初老の男は、自分が積み上げてきた財産を、すべて息子に譲ったという。
 商人は、あの男が何もない部屋でひとり、この椅子に座って何を思うのかを考えた。
 しかし、考えれば考えるほど、どの答えもすべてあの微笑みに捉えられ、正しさを失くしてしまうだけだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?