2020年須賀川俳句の集い 特選・入選句選評
《選評 鈴木光影「特選」三句》
夏の日の放課後の匂いいつまでか 橋本和花奈
暑い日差しが校庭や校舎に照り付け、それに負けないように賑やかに生徒たちが活動している昼間の学校。その後、生徒たちが帰った夏の放課後の校舎はひっそりとして、夕焼けの光が差しこんだりしています。作者はそんな「放課後の匂い」が、なぜだか好きだったのでしょう。この句を作ったとき、夏が終わりに近づいていたかもしれません。作者は、高校三年生、人生最後の「夏の日の放課後の匂い」を俳句に焼き付けました。のちのちこの俳句を口ずさむたびに、過ぎ去ってしまう日々を惜しむ高校生の自分の気持ちと、あの日の夏の放課後の光景がよみがえってくることでしょう。
雀の子ぶつかったのはゴジラかな 小林 和花
「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」と詠んだのは、江戸時代の俳人・小林一茶です。この一茶の句は、大名が乗る馬(強い者)と雀の子(弱い者)が対比されています。現代の作者が「雀の子」と対比させたのは、なんと巨大怪獣「ゴジラ」です。雀の子にとって、お馬どころの騒ぎじゃありません。「tette」の中にあるゴジラスーツ模型だったらまだよいのですが、本物のゴジラだったら、ぶつかることすらできるのか心配になります…(笑)。円谷英二の出身地、須賀川だからこそ生まれた俳句かなと思います。読む人の意外な想像力を刺激してくれる、ユーモアあふれる作品です。なお、「かな」は、詠嘆・強調の「だなあ」くらいの意味になります。
雷の声収まりて模試続く 土居 陽香
模擬試験の序盤、教室の中まで響く激しい雷の音が鳴っています。それは、試験を受けている生徒たちの緊張や心の焦りとも重なる「雷の声」です。その声がやがて収まり、試験会場は静寂に変わります。この句のよいところは、その静寂が感じられるところです。生徒たちがペンを走らせる「カッカッカッ」という音も聞こえてきそうです。試験とは、雷の声のような自分の外側から来るものとの闘いではありません。あえていえば、自分自身との闘いです。集中力を保って、限られた時間で自分の持てる力を発揮する。雷が去った後、試験を受けている皆が、それぞれ自分の世界に入って静かに自分との闘いを続けた、ということではないでしょうか。
《鈴木光影「入選」十七句》
春陰や憂う日もまた美しく 窪木 桃
高校生の時ならば、悩み事や将来の心配事も多く「憂う日」もあるでしょう。作者はそんな日々を「美しい」と、客観的に、また肯定的に言い表しています。「憂う日」を送ることは、辛いけれど決して悪いことばかりではないよ、と励ましてくれているようです。
踏み込んだ濡るる地面浮かぶ月 長谷川衿奈
雨上がりに上がった月を詠んだ句だと思いました。「踏み込んだ濡るる地面」は自分の体、足で触れることのできる確かなものです。その一方「浮かぶ月」は、触れられない遥か遠くの天体です。今自分が地球で生きているということが、とっても不思議な出来事のように思えてきます。なお、中7の「濡るる地面」が6音なので、「地面と」や「地面に」のように助詞を追加するという手もあります。私は「地面と」の意味で鑑賞しましたが、「地面に」とすると、濡れた地面に月が映る景色になり、そちらも素敵です。
高体連今年は薄い日焼けあと 三浦 翔太
普段の年であれば、「日焼けあと」は夏の間どれだけ練習してきたかのバロメーター、強さの証になっていたと思います。コロナの夏、例年に比べ野外で部活動の練習ができず、それでも工夫して練習し、選手たちは「高体連」を迎えたことと思います。日焼けあとの薄さに注目し、その後ろ側にあるドラマを想像させたところが良かったです。
梅雨入り髪の毛爆発くし必須 鈴木 愛実
俳句のリズムは、5・7・5の17音が基本なのですが、この句の作者は独自のリズムを生み出しています。「ツユイリ(4)・カミノケ(4)・バクハツ(4)・クシヒッス(5)」。結果的に17音になっています。読んでいて不思議と心地よい、ラップのようです。しかも梅雨どきの高校生の髪の毛事情が、一行に詰め込まれている、面白くて爽快な一句です。
蟬の音に今年は覚える愛おしさ 山田 奏羽
コロナ禍になり家の中で過ごす時間が多くなると、それまで普通だった季節感が感じられなくなります。去年までの蝉の声ならば、「梅雨が明けて夏が来たな」ぐらいのところを、今年は「愛おしい」と作者は感じました。コロナ禍でも自然の日常はきちんと巡っているのだという事を蝉が教えてくれたのです。この愛おしさは、変わらない日常に対する愛おしさなのだと思います。
雪つもる遠山ながめ温まる 吉成 悠人
白い雪化粧をした遠い山を眺めながら、炬燵にでも入っているのでしょうか。「温まる」は実際に暖房器具で体が温まっているとともに、自然豊かな雪山の雄大な姿を眺めやることが出来ている「心の温かさ」も表しているのだと思います。
安産を願う病棟甲子園 千代 真光
産科病棟で赤ちゃんが生まれるのをはらはらしながら待っている場面ではないかと思いました。その待合室には、夏の高校野球・甲子園のテレビ放送が流れています。妊婦の命懸けの出産を祈りつつ、待つ人がいます。同じ時、球児たちは必至に白球を追いかけています。命の誕生の場面に偶然共演した甲子園に、妙なリアリティを感じます。「甲子園」は歳時記(季語辞典)には季語として収録されていませんが、夏の恒例行事として季節感は感じるので、今回は夏の季語のように鑑賞しました。
カブトムシダンゴムシに嫉妬する 宮田 雄太
逆に、ダンゴムシがカブトムシに嫉妬するなら、当たり前で面白くありませんね。一見とりえのなさそうなダンゴムシに、昆虫の王様・カブトムシが嫉妬するどんな魅力があるのでしょうか? その答えは、読者の想像力に任せられています。想像の翼を広げれば、ここから一つの童話が始まりそうです。
夏の音今年は静かに眠ってる 新美 萌香
打ち上がった花火の音、熱い砂浜に打ちつける波の音、かき氷を削る音などなど…。それら全てを「夏の音」と一言で表現したことで、この俳句を読む人の心の中で、それぞれの「夏の音」が再生される効果を生んでいます。いつもと違う今年の夏は、直接それらの音を聴くことはかないませんでしたが、「眠ってる」からは、きっと「夏の音」が目覚める日が来るんだという小さな希望も感じられます。
秋風が優しくつつむ子供たち 田邉 彩花
秋風といったら、肌寒い、寂しげな印象もありますが、この句は子供たちをつつむ優しい風です。夏の太陽の下で遊んで日焼けした子供たちの肌を、秋風がクールダウンして癒しているのかもしれません。また、コロナ禍という前途多難な時代を生きる子供たちに健やかに育ってほしいという、作者の優しいまなざしも感じます。
カーテンが香り漂う干し柿の 佐藤 小桜
「カーテンが香り漂う」まで読んで、どんな素敵な香りなのだろう?と期待させておいて、最後の「干し柿の」の田舎っぽさに着地する落差が面白かったです。「干し柿」は、今は片付けられているのだけれど、カーテンに匂いを残して、「いないけどいる」存在感を放っています。
ペグ回し音色を新調もみじ音 阿部 真弓
「ペグ」はギターやウクレレのチューニングをする部位ですね。転調をした「もみじ音」は、彩り豊かで、またどこか秋の哀愁が漂う音色ではないかと想像します。音楽から着想して、「もみじ音」という独創的な言葉を作り出した所が良かったです。
御先祖に飛沫を防ぐマスクかな 樽川 結
「マスク」は冬の季語ですが、このコロナ禍で一年中のアイテムになり、季語ではなくなってしまった感があります。これは春か秋のお彼岸のお墓参りの場面ではないかと思いました。あの世にいらっしゃるご先祖にウイルスをうつしては申し訳ないという気持ちから、作者はマスクをしてお参りしたのでしょう。「大変な世になりました」と心の中でご先祖に語りかけなどしつつ。
友思ひすぐに見つける秋の暮 鈴木 那菜
秋の暮の友達との待ち合わせに少し遅れてしまったのかもしれません。日が暮れて人の顔の見分けがつきづらくても、大好きな友達ですから、光るように「すぐに見つける」ことが出来たのだと思います。もの寂しい秋の暮の、ぽっと心のあたたまる一場面です。
縁側に自粛疲れを冷やかす蚊 遠藤 華和
この夏は多くの人が「自粛疲れ」を感じたことと思います。あまり外出できないので、せめて縁側に出てみれば、そこでもうっとうしい蚊がまとわりついてきます。「冷やかす」と表現したところが、今夏の私たち人間にとって共感できます。
檸檬って甘甘な花つけるのね 小針 桜子
檸檬の実の味は酸っぱいけれど、その花はかわいらしいですね。「って」や「甘甘」や「つけるのね」という語り口自体が「甘甘」です。檸檬の花に語りかけているようでいて、いつの間にか檸檬の花のような可愛らしい言葉遣いになっているところが、面白くてうまいです。
天狼を仰ぐ野良犬首輪あり 長谷川優輝
天狼は冬の夜空に輝く星・シリウスのことです。遥かな星と対比されるのは、地上の首輪をした野良犬です。飼主から逃げてきたのかもしれません。縛られて管理されていた生活から自由を求めて、「野良」の生き方を選んだ犬は、天狼星のようにありたいとその強い光を仰いだのかもしれません。
《森川光郎「特選」三句 (鑑賞は鈴木光影)》
山眠るどんな未来も変えられる 加藤 愛理
「山眠る」は、木々が葉を落とし、動物たちも冬眠しひっそりと静まり返った冬の山を表す季語です。この「山眠る」という自然の風景と、「どんな未来も変えられる」という人の心のコラボレーションから、冬の山のように静かに未来への夢や気力を温めている様子が感じられます。私も、「どんな未来も変えられる」と思います。しっかり考えて、心を決めて、小さなことからでも行動を起こせば、その時点で未来は変わっているのです。やがて山は眠りから覚め、明るい春が訪れます。
蛞蝓の這う先見れば小さな緑 大河内勇希
蛞蝓はふつう気持ち悪がられてあまり人からじっと見られることもないのかもしれません。しかし、作者はそんな嫌われ者の蛞蝓の這う様子をじっくりと観察しています。そして、その這う先にある「小さな緑」を発見します。あたかも自分が蛞蝓の目線に置き換わっているかのようです。蛞蝓は葉っぱを食べますので、きっと食べるために葉っぱを目指していたのかもしれませんが、「緑」と表現をぼかしたことで、より「蛞蝓目線」っぽくなったのではないでしょうか。
母の手と釈迦堂川の鯉幟 伊藤 綾香
釈迦堂川の鯉のぼり川渡しの様子を描いています。「母の手」とあるので、おそらく子供の頃にお母さんと手をつなぎながら見た鯉幟の記憶ではないでしょうか。初夏の釈迦堂川の空を泳ぐ色とりどりの鯉幟と、お母さんの手のぬくもりとがセットの思い出として、作者の記憶にしまわれているのでしょう。きっとお母さんも、その時、今高校生の作者の成長を願いながら鯉幟を眺めていたと思います。
《森川光郎「入選」十七句 (鑑賞は鈴木光影)》
空間図形に大玉の汗にじみあり 徳田 昭太
勉強中の数学の教科書かノートの空間図形の中に、自分から流れ落ちた汗の玉が落ちて模様をつくり、新たな図形が出来てしまいました。教科書の空間図形は、二次元の平面ですが、大玉の汗は三次元・本当の空間図形で、そこに驚き・発見があります。勉強に一生懸命な様子も伝わってきます。
花火見て感動よりも懐かしさ 小栗山愛莉
花火を見て、「感動」は感動なんだけれど、少し違って、それをもっと近い言葉で言えば「懐かしさ」だよな、という感じでしょう。心が動いた時、なんでも「感動」の一言で済ませてしまっては、ちょっともったいないですよね。どういう種類の感動か、自分の心の奥へ踏み込んで「懐かしさ」という言葉を掴み取った所がよかったです。コロナの非日常の生活の中で、少しだけ日常の夏が来てくれた、その普通の夏の懐かしさなのかもしれません。
蚊帳畳む手を止め祖母と螽蟖 高橋 孝太
最近は「蚊帳」を吊ることもほとんどなくなりましたので、これも昔の祖母との記憶なのかもしれません。秋が来て、祖母が蚊帳を仕舞うため畳んでいると、螽斯(キリギリス)が「チョンギース」と鳴きました。二人で「今、キリギリスが鳴いたねえ、秋が来たねえ」などと言葉を交わしたのかもしれません。
落ち葉ふり水面に映るゆれる空 小森山唯奈
季語は「落ち葉」で冬、この「水面」も冬の冷たく澄んだ水が張った池だと思います。落ち葉が降るゆらゆらとした軌道を見ていると、世界がしずかに揺れているように感じます。その繊細な感覚を、水が揺れているのではなく、水に映る空が揺れていると表現したところがよかったです。
窓際の大きな背中春光射す 常松 花凜
いわゆる片思いの句でしょうか。授業中、教室の後ろの方の席から、窓際のあの人の背中をいつの間にか眺めています。窓からは瑞々しい春の光が、特別なあの人の大きな背中を、スポットライトのように照らしています。直接は言わずに、背中と春光に恋心を語らせたのだと思います。
初詣母の健康ただ願う 佐藤 耕介
「ただ願う」という表現から、お母様は大変な病気を患われていることと思います。自分の幸せは脇に置いておいて、とにかく母の健康を、という切実な祈りの姿勢が描かれています。「神頼み」だとしても、その一途で懸命な祈りが通ずることを願っています。
コロナでも変わらない夏そこにある 西牧 実々
新型コロナウイルス感染症は、私達人間の生活を一変させました。ところが、春夏秋冬は人間の大騒ぎとは関係なく、変わらず回っていることを、私たちは知りました。梅雨時になれば雨が降り、梅雨明けしたら蝉が鳴き、灼熱の太陽が照り付けました。人間は自然を支配して生きているのではなく、自然の中で生かされていることを、このコロナ禍は教えてくれたのかもしれません。また、格言のような言い切りもこの句のよさです。
新雪へはじめの一歩胸高なる 安藤 遥南
誰の足跡もついていない、まっさらの白い雪道に、いま自分が、「はじめの一歩」を踏み出そうとしています。その胸の高鳴りはどこか、「はじめて」のことをするときの、程よい緊張・ワクワク感と重なり合っています。
持ち主の失き夏帽子風薫る 國分ゆかり
道端にぽつんと落ちている夏帽子、誰かの落としもの、忘れものでしょうか? 持ち主がいなくなった夏帽子は、寂しげでもあるけれど、どことなく自由を満喫して心地よく風に吹かれているようにも見えます。「風薫る」は初夏の風で、季語です。「夏帽子」も季語です。一句に季語は一つというのが基本ですが、この句はそれでも良い句だと思います。
背を伸ばし一息ついて彼岸花 伊藤 怜
秋のお彼岸の頃に咲く彼岸花は、どこかあやしげな存在感を放ちつつ静かに咲いています。「背を伸ばし一息ついて」は、お彼岸のお墓参りをする前に心を落ち着かせている様子なのかもしれません。お墓の隅にひっそりと咲く彼岸花は、あの世とこの世を結ぶ花なのかもしれないですね。
ゆらゆらと田んぼに浮かぶ花火たち 木村 茜
水が張った田んぼに、打ちあがった花火が映り、水面が揺れています。みんなは花火そのものを見上げているのに、作者は地上の田んぼに映った花火の美しさに注目しています。田んぼという日常と、非日常の花火のコラボレーションはとても素敵だと思います。
牡丹咲く雫の光る君の靴 樫村 凜
作者は、雨上がりの牡丹を「君」と一緒に見ています。でもあまり「君」の顔は直視できないようです。だから、下を向いて「靴」ばかりを見ています。君の靴にはきれいな雫がついています。牡丹の花のような淡い恋心を内に秘めた句、なのかもしれません。
青空は画面の向こう我の夏 轡田 紫依
テレビやスマホ画面を通してしか、夏の青空を感じることのできない嘆きが伝わってきます。そのような便利な機械が無い時代に比べたら、恵まれているのかもしれませんが、人にとって自然と直に触れることがいかに大切な事かを考えさせてくれる一句です。
宇津峰が見守る下で育つ夏 小山 桜歩
宇津峰は須賀川の皆さんにとって大変親しみ深い山で、作者は宇津峰が自分たちを上から見守っていてくれるように日々感じているのでしょう。「育つ夏」は、夏の草花などの自然でもあり、また、夏の日差しを受けながら汗をかいて生活している我々人間のことでもあるようです。
創作の熱意からまる夏の夜 安齋 美咲
一口に創作といっても、絵画、作曲、俳句、その他色々あります。夏の夜のまとわりつくような暑さと、熱意が空回りしてなかなかよい作品が出来ない生みの苦しみの思いが重なっています。熱意を持続して、「夜」を越えれば、きっと一筋の光がみえてくるはずです。
頽れた紫陽花の下の白猫 七海 千夏
花の盛りが終わり、「頽れた」紫陽花は、それまで鮮やかな変化を見せてきた色を失い、白に近づいて枯れてゆきます。枯れかけた紫陽花と、その下にちょこんと座る純白の猫との対比が、絵画作品のように美しい構図を作っています。
夕立や並ぶサドルに乗る滴 菅野 和奈
急な夕立で、軒の下に移動できなかった自転車たちが並んで雨に打たれています。高校通学用の自転車かもしれません。作者の目は、そのサドルが弾いて水の玉になっている滴に焦点を当てます。自転車のサドルが濡れてしまって嫌だな、ということとは別次元の、世界の小さな美を発見する丁寧な視線を感じます。
「コールサック104号」より転載
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(参考) 俳句同人誌『桔槹』(きっこう)HP
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