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2020年須賀川俳句の集い 総評

福島県須賀川市で、高校生向けの『須賀川俳句の集い』を主導している俳人・永瀬十悟氏(「桔槹」同人)からの依頼で、俳句大会の特別選者を務めさせていただいた。当初は本年六月に講演会・吟行会を予定していたが、新型コロナウイルス流行の為、投句による俳句大会となった。選考は本年十月末に行った。今回の俳句時評は、その総評と選評の模様を転載させていただく。


《須賀川俳句の集い 総評》

はじめまして。この度俳句の選者を務めさせていただいた鈴木光影と申します。選考経過としては、今回皆さんから合計979句の投句をいただき、そこから、桔槹吟社代表の森川光郎先生と共にそれぞれ特選3句入選17句を選びました。互いに選が重なった場合は調整をして、合計40句を選出しました。

総評として私から、「俳句とはどのような言葉か」ということと、「皆さんの俳句を選ぶにあたって私が基準にしたこと」の二点について、お話ししたいと思います。

その前に、少し自己紹介をさせてください。私は今34歳、東京で俳句を作ったり俳句の評論を書いたり、いわゆる「若手俳人」として活動しています。6年前、28歳の頃に縁があって俳句を始めました。高校生の頃の私は、俳句なんてお年寄りの趣味程度にしか思っていませんでした。また私が育った地域では須賀川のような俳句大会も行われることはなかったので、皆さんの方が年齢的には私より早く俳句に触れていることになります。高校生の私は、今回入選された方のような俳句はとうてい作れなかったと思います。その意味で特選・入選の方はすごいと思いますし、とにかく俳句を出してくださった皆さんもすごい! そして高校生にこんな機会をつくられている須賀川の文化はすごい! ということをまずはお伝えしたいと思います。

それでは本題の一つ目、俳句とはどのような言葉でしょうか?
私がいきなり「言葉」という大きすぎるテーマを持ち出したのは、今時代を一変させてしまった「新型コロナウイルス」について思うことがあるからです。コロナの世になってから、「三密」「ステイホーム」「ソーシャルディスタンス」…その他沢山の言葉が、日々作られて流通し続けています。このような言葉について皆さんはどのような感じを抱くでしょうか?
「ウイルスには勝てないからしょうがないな」と、それらの言葉を呑み込んで日常的に使っているでしょうか。または、「感染を防ぐためには必要なことだろうけど、やっぱりどこか嫌な気持ちがするな」と、これらの言葉に微かな違和感を覚えている人もいるかもしれません。実は私もその一人です。
これらの言葉の共通点を探してみると、気がつくことがあります。それは、これらは全て「ある人に、ある行動をさせようとする言葉」なのです。目の前の相手や、コロナの場合はより多くの民衆に、自粛させたり距離を取らせたりという行動を起こさせるために、言葉を「道具」として使っているのです。いわゆる「道具としての言葉」です。
「あたりまえじゃん、言葉ってそういうものだよ」という人、その人にお伝えしたいです。俳句の言葉は「道具としての言葉」ではありません。つまり、俳句はお金儲けのためにも、学歴のためにも、恋愛のためにも、直接的には役に立たないと思います。
それでは、一見役に立たない無駄な言葉を、何故私(鈴木)は、作ったり読んだりしているのでしょうか?
それは一言で言えば「自分の心の動きに敏感になるため」です。私は俳句を作ったり読んだりする時、意識的に感覚を鋭くさせるようにしています。目を凝らしたり耳を澄ましたり五感を鋭くさせ、また過去の記憶や未来へ向けての想像力をたくましくします。「心が動くハードルを低くする」とでも言いましょうか。
私達は普通に生きていて、身の周りの日常世界に対して、様々なことを思ったり感じたりしているはずです。雪が照り返す陽の光、新緑の葉擦れの音、金木犀の花の匂い、などの季節の変化に、また、季節に関わらない生活の細部にも人の心は動いていると思います。でも、多くの人は、それらの小さな「心の動き」を見ないふりをして捨て去ってしまっているのではないでしょうか。「心が動くハードルが高い」のです。
俳句は、世界と触れ合ったときの自分の「心の動き」を逃さず掴まえて、言葉という形にする行為だと思います。私が無駄な言葉としての俳句をやっている理由はここにあります。世界と向き合ったときの自分の心の動きを確かめたい。もちろん、時に自分自身も全く思いがけない俳句ができることもあります。それもまた「道具として」ではない言葉として、自分の心を豊かにしてくれると思っています。何か決まった目的を達成するための「道具」ではなく、言葉それ自体に価値を持たせようとするのが俳句の言葉だと思います。
そして自分の心の動きに敏感になり心を豊かにすることは、様々なアイデアの元になったり、本当に心の通う友人との出会いに繋がったりするかもしれません。先ほど「直接的には役に立たない」と言いましたが、めぐりめぐって人が生きる役に立っているのだと思います。
少々ややこしい話になりましたが、「俳句とはどのような言葉か?」についての今のところの私の考えです。これから先、人間関係のかけひきやさらにはビジネスの現場で、言葉を「道具」として使わざるを得ないことがあるはずです。広告業界などはその典型です。しかし、「道具ではない言葉」がある、その言葉があなた自身を根っこから支えてくれるはずだということは、私から皆さんにぜひお伝えしたいのです。

それでは本題の二つ目、皆さんの俳句を選ぶにあたって私が基準にしたこと、について。
次の三点を基準にして選びました。

1、心が動いていること
2、自分だけの言葉を目指していること
3、具体的であること

まず、前半でお話した「心が動いていること」。よりつっこんで言えば、「驚いているかどうか」です。何も仰天するくらいの驚きを言っているわけではありません。自然や、人や、出来事のほんの些細な変化にも目を向け、驚き、心を動かすことは、平たんで退屈に思えたモノクロの世界に色を塗るようなことだと思います。その俳句を読んで、驚きが感じられるか、作者の心の動きが読者(私)にも伝わってくるかどうか、これを選句の第一の基準にしました。
二つ目、「自分だけの言葉を目指していること」。これは「動いた心」を言い表す言葉を、どこかからの借り物の言葉をひっぱってきて自分の言葉の代わりにしない、ということです。もちろん、新しい自分だけの言葉をつくるなんて簡単にできることではありません。しかし、最初からあきらめないで、それを目指すことです。自分が感じたこと、動いた心にどこまでも忠実になって、妥協せずに言葉を選んで、組み合わせているかどうか。どこかできいたような言い回し、口当たりの良い言葉には要注意です。また、些細な事でも「これってもしかして自分だけ?」という感覚は自分だけの言葉の種かもしれません。忘れないうちにどこかに書き留めておいてはいかがでしょうか。
三つ目、「具体的であること」。これは、一つ目と二つ目を突き詰めていけば、自然と具体的な言葉として形になってゆくと思います。より深く丁寧に考えれば、具体的な言葉が選ばれるはずです。そして俳句は、「楽しい」とか「きれい」とか「かわいい」とか漠然とした自分の思いの言葉を使わないで、そのモノや出来事自体を具体的に描写する方がかえって、読者にも、自分の心の動きが伝わります。
話が飛びますが、「君の名は。」「天気の子」などの新海誠監督のアニメ作品は、物語の背景の自然や、街並みや、天気や、光がとても緻密に、鮮やかに描写されています。一見本筋とは関係のない背景の美しさが、物語の世界観の成立に重要な役割を果たしています。ふつうの生活の中に美しさを発見し、具体的に描くことは、俳句にも通じる世界の見方だと思います。


さて、以上の三点を基準に持ちながら、皆さんの俳句を選ばさせていただきました。

最後にひとつだけ。人がどういう言葉を使うかは、その人がどういう生き方をしているかと密接にかかわっています。誠実な人は誠実な言葉を、優しい人は優しい言葉を、怒りっぽい人は怒った言葉を使っているはずです。
俳句も同じではないでしょうか。もちろん一句でその人の全ては分かりませんし、あくまでフィクションとしての俳句という考え方もあります。しかし、その人がどのようなことに関心があり、どのような言葉を選んで一句を作り上げたかによって、いくつかの俳句からは、その作者の姿が浮かび上がってくるように思います。
言葉は、あなた自身を映す鏡でもあり、私が今回語った以上に奥が深いものだと思います。俳句を一つのきっかけとして、皆さんが「自分の言葉」を話したり書いたりして心豊かな人生を送られることを願っています。ありがとうございました。


「コールサック104号」より転載

https://www.amazon.co.jp/dp/4864354707/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_g.AYFb4Z5C983

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(参考 俳句同人誌『桔槹』(きっこう)HP

https://www.kikkou-sukagawa-haiku.org/%E6%AC%A1%E4%B8%96%E4%BB%A3%E8%82%B2%E6%88%90%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

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