新連載小説「少女A」 第1話 読了3分
少女A
少女の手首と顔には、何本もの赤いラインが走っていた。
「これは酷い、ここまで自分で自分を切り刻むなんて、よほど何か悩んでいたんですかね」
そう言うと田口翔太はすぐに視線を外した。目がくうを舞っている。
場所は江東区の外れに立つ2階建てのアパート、一人暮らしの子供と連絡が取れなくなったと心配した九州の親がアパートの管理人に連絡をし、管理人が部屋に入ったところ、死体を発見し警察に届けていた。部屋には鍵がかかっていなかったという。
少女は全裸で、半分くらい溜まったバスタブの水の中にいた。いや、今は水だが死亡直後はお湯だったのかもしれない、自分で止めて自害したのか、水道の蛇口は絞められていた。流れ出た血液のせいで少女の浸かっている水が真っ赤に染まっている。
「誰にだって悩みはある、悩みのせいで死のうと思うかどうかは別としてもな」
桐谷夕一朗が少女の横にしゃがみながら言った。
桐谷は今年55歳になった。捜査一課では10年目だ。死体など見慣れている。一方の田口は30歳にして捜査一課に配属された。まだ若手で無鉄砲なところがあるが、推薦され配属されたわけだから腕は確かだと桐谷はにらんでいた。
少女の手首には一度では死ねなかったのか、何度も切り刻んだ跡が残っていた。争った跡はないようだが、少女は手首だけではなく自分の顔を切り刻んでいた。手首と顔にはカッターで切り刻んだ跡が、何かを訴えかけるように、細く、そして鋭い口を開けていた。
自殺だとしても顔を切り刻むには理解ができにくいという点と、部屋の鍵がかかっていなかった点から他殺の線もありえることも踏まえ捜査は行われていた。
バスルームから出るとすぐにリビングがある。アパートだが、まるでマンションみたいな内装だ。若いわりには茶色を基調としたシックな色遣いでまとまっていた。
今、部屋の中には、桐谷と田口以外に鑑識が三人いる。大人が5人いると窮屈だ。桐谷は少々動きにくさを感じていた。
部屋中に指紋があり、本人とは別の指紋も出ていた。
両親あての遺書が発見されていた。遺書はパソコンで作成し自分のプリンターで印刷したようだ。親に迷惑ばかりをかけてきて悪かったという謝罪めいたものと、自分は死ぬに値する悪い子供だった、自分の顔に悩みを持っていた、といったようなことが書いてあり、遺書には特に事件性をにおわせるようなことは書いてなかった。だが、こういう見せかけの遺書は誰にでも作れることがわかっている。
10日前ほどに本人から親に連絡があり、半年後に海外留学に行くことが決まっていたことから、自殺をするとは考えられないというのが警察の正直な見立てだ。
部屋にあるもの全てが、住人が明日も生きるはずだったことをもの語っている。しかし、扉一枚隔てた空間では大量の血液や切り刻んだ手首、感情をなくした表情の少女が静かに佇んでいる。明らかにそこには死が存在し、不釣り合いな傷跡がここには残されている。
端のキッチンには睡眠薬の瓶があり、瓶の周りや床には錠剤が散乱していた。睡眠薬では死ねなくて手首を切ったのか。
「これは絶対に他殺ですね」
田口が口を尖らせ、自信満々の顔つきで言葉を吐いた。
「なぜそう思う?」
少しの間があり桐谷が答えた。
「自分の顔を切り刻んで自殺する人間がいますかね。それに大量のコンドームがふたを開けた状態でしまってある。セックスを楽しんでいる人間がそう簡単に自殺するようには思わないんですけどね」
日本では年間2万人以上の人間が自殺している。その1割の2000件くらいが東京都内で発生したものだ。東京では1日に50人以上の人間が自殺している計算になる。
全部の自殺の現場に立ち会っているわけではないが、これだけの人数がいれば、不自然な現場があってもおかしくはない。ただ、これは自殺ではない、桐谷の長年の勘がそう思わせていた。
「お疲れさまです」
近所で聞き込みをしていた青山が部屋に入ってきて、桐谷に声をかけた。
「何か新しいネタはあったのか」
「ガイシャの身元ですが、名前は藤野もえ、年齢は20歳。部屋にあった学生証と免許証、それから部屋の居住者名簿が一致しましたので、間違いないかと、まあDNA鑑定をすればそれは明らかになるかと。それから隣の部屋の女性がおととい、男がこの部屋から出ていくのを目撃しています。その女の話では仕事から帰宅した際に、そこの階段で走って降りてくる男とすれ違ったそうです。男はおそらくガイシャの交際相手です。男のことはちょっと前までは頻繁に見かけていたみたいですが、おとといは久しぶりに見たと言っています。女性は夜帰ってくる時間がガイシャと同じ時間帯らしく、よく顔を合わせています。ただ挨拶をする程度で、これといって親しい訳でもないようです。また、このアパートには防犯ビデオは設置されていません」
「わかった、男の身元を洗ってくれ。あとは鑑識の結果待ちだな」
あ、あと、青山が話を続けた。
「先週のことですが、ガイシャの部屋に来客があったようで、帰宅した際にこの窓から声が聞こえてきたそうです」
「男か」
桐谷が振り返って聞いた。
「いえ、女です。ゆう、とかいう名前だそうで」
「なぜ、わかった」
「帰ってきてこの部屋の前を通りかかったところ、そこの窓から、ゆうと呼び、返事をした声が女性だったそうです。女性は自分の名前がゆう子だったので、自分が呼ばれた気がして、それで覚えていたそうです、返事をした声は間違いなく女だったと言ってます」
「顔は見たのか」
「いいえ、カーテンがしまっていたので声しか聞いていないと言ってます」
青山が頭を下げ部屋を出て行った。
少女A 第2話につづく
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