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日記 第2話 読了3分 

前回までのあらすじ
緊急救助隊に勤めている西澤祐樹がかけつけて担架で運んだのは知り合いの吉田公子だった。病院に運んでいる途中で祐樹は公子の秘部をみることになってしまう。運が悪いのか見ている途中で公子が目を覚ましたのだった。

日記 第2話

「あらやだ」

公子は右ひざにパンツをかけたままひざを閉じた。閉じた太ももの重なり具合が艶やかだ。

「意識を取り戻しましたか」

川崎が声に気が付き公子に声をかけた。

「あ、えっと」

公子は状況が把握できないようで返答に困っていた。視線は祐樹に向かったまま動かない。祐樹は気まずくなってパンツから手を離した。

「ちゃんとはかせてよ」

一瞬聞き間違いかと思ったが、公子が命令口調でそう言ったのだった。

祐樹が頭の中を整理していると、公子の足が伸び、全身の力が抜けたのか、眠りにつくように横たわってしまった。

「失神したな」

そう言って川崎はメモをした。

翌日の昼には、公子は何もなかったかのように回復していた。

「すぐに回復できてよかったです」

祐樹は仕事の合間を見て公子の病室に様子を見に来ていた。

「ありがとうございます、昔からある発作だから、大丈夫ですよ」

公子のいつもの笑顔が回復したことを教えてくれる。

「運んでくれたんですってね、祐樹さん」

ふと、救急車の中でのことが頭をよぎった。公子の目に足元で目を見開いている自分の顔が生々しく映ったはずだ。

「私、あんな感じになった時は何も覚えてなくて、私、はずかしいこと言ってなかった?」

「だ、大丈夫ですよ。静かに眠っているみたいでした」

何も覚えていないことが救いだ。恥ずかしいことなんか何も言ってませんよ、恥ずかしい部分は見えましたけど、そう思いながら祐樹は胸をなでおろした。直後に不謹慎な自分を恥じた。

祐樹の言葉を最後に2人は無言になった。公子も何かを思っているのか、話しかけてこない。離婚したことは公子の耳にも入っているはずだ。ただなんと言えばいいのかわからずにいた。

2人の視線は空間を彷徨い、空白を埋める都合のいい言葉は何も思い浮かばなかった。

「じゃあ俺仕事あるんで、また。ていうかもう退院ですよね」

祐樹が精いっぱいの言葉を絞り出すと、公子が黙ってうなずいた。

病室を出て廊下を歩く。やっぱりこうなるよな、歩きながら祐樹がため息をついた。家族ぐるみのつきあいだったから、千沙からは離婚した理由が公子夫婦にはとっくに流れているはずだ。

祐樹と妻の千沙は3カ月前に離婚していた。理由は祐樹の浮気だ。実際にはそんな事実はないが、浮気の事実はなくても離婚をしたかったのは事実だろう。

仕事柄、共働きをしている妻と家で顔を合わせる時間が少ないうえに、何しろ緊急事態が発生すれば休みなど関係なしに出動する仕事だ。いっしょに外出する約束を破ったことが何度もあった。夫としての役割は何も果たしていなかった。

残業でさえ妻の心を乱していたのに、ある日友人の木村がとりあえず預かってくれ、と預けたバッグを家に持ち帰ったところ、千沙に中を見られブチ切れられた。

バッグにはムチや猿ぐつわといったSMで使われる道具と、熟女パーティというイベントのパンフレットが100部入っていたのだ。結果としてこのことが浮気として取り扱われた。

当然だがSMなんかには興味はない。熟女パーティという普通は付けないだろうと思える名前のパーティにもいったことがあるはずもない。

木村の奥さんはイベントホールの経営をしているが、木村が事前に持ち込む荷物を客から預かっていた。木村の顧客である会社が定期的に行っているちょっと変わったパーティらしい。

木村は銀行員だが、出張が入り、こんなの持ち歩けないし、会社に置いておくのはリスクがある、と祐樹を呼び出し飲み代と引き換えに預けていったのだった。

俺の会社にはリスクはないと思っているのか。腹立たしさも抱えながら、人のいい祐樹はそんなブツでさえすんなりと預かってしまった。当然会社に置いておくのはリスクがある、ましてや救急隊だ、不審物は彼らにとって格好の餌食だ。中身がばれるのは時間の問題だ。

今になって思えば妻にとっては離婚を切り出すのいい材料だったのだろう。バッグが見つかって数日すると記入済みの離婚届けを叩きつけられた。

公子夫婦はそんな自分にあきれているのかもしれない。公子を担架で運びだす際に達夫が何か言おうとしていたことを思い出した。

「おい、西澤、明日朝5時に家に迎えにきてくれ、明日は俺、休みだから」

待機室に戻るといきなり川崎から命令口調で言われた。妻と公子と達也の顔を思い浮かべていたところに、川崎の言葉が刺さった。

「それは業務命令ですか」

祐樹は中途採用で救急隊に就職していた。入社をした時から川崎の部下だった。川崎は当時30歳、祐樹は25歳、あれから5年経っていた。

5年間で祐樹は川崎からどんなに理不尽なことを言われてもたてついたことは一度もない、それが当たり前になっていた。川崎も当然のことのようにやりたい放題だ。5年間に蓄積された思いは大きい。

「いや違うが、何か文句でもあるのか。明日はゴルフに行くから、いつものことだ、お前は黙って言うことを聞けばいいんだよ」

川崎はそう言いながら書類を見ている。書類の横に飲みかけのヤクルトが見えた。他のことをしながらでも祐樹が言いなりになると思っている、それが祐樹に火をつけた。

「じゃあ行きません」

その言葉を聞いて、書類を見ている川崎が初めて顔を上げた。

「は?今なんて言った」

「だから行きませんって言ったんです」

「これは命令だぞ、これも仕事のうちだ」

「何言ってんだかわかんねえよ、馬鹿じゃないのか、こんなのパワハラだよ、とにかく行かないから」

だんだん口調が荒くなる。

「おい、今なんていった、馬鹿だ?え、もう一回言ってみろよ、言えるなら」

まだ自信を持っているようだ。

「馬鹿だから馬鹿って言ったんだろ、そんなのもわかないのか、だから馬鹿って言ってんだよ」

「なんだと」

川崎はそう言い、立ち上がったが、拍子に飲んでいたヤクルトが倒れて書類の色がみるみるうちに濃くなっている。

「何ヤクルトなんか飲んでんだよ、それが馬鹿の証拠だろ」

「ヤクルトはうまいんだよ、味が分からない奴に言われる筋合いはない、ヤクルトを馬鹿にするな」

川崎はそう言いながらヤクルトの入っていた器を丁寧に立てた。それから、つかつかと祐樹の前にくると、右手を振り上げた。一瞬で拳が振り下ろされる。

祐樹は瞬時にそれをよけると、川崎の足を右足で振り払った。勢いづいていたからか、激しく川崎がその場であおむけに倒れた。

「いたっ!」

祐樹が上から右腕を振り上げると、川崎が頭を両手でかばいながらうずくまった。ダンゴムシみたいな川崎を見たら急に祐樹の力が抜け、殴るのが馬鹿らしくなった。

「痛いのはこっちだよ、何を偉そうにして、こんな会社辞めてやる」

そう言うと祐樹は踵を返し、部屋から出て行った。

廊下を歩いている途中でロッカーにバッグを忘れたことに気が付き、祐樹はもう一度待機室に戻った。

勢いよくドアを開けると、立っていた川崎がすかさず机の陰にしゃがみこむのが見えた。

日記 第3話につづく

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