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本能寺の変 1582 光秀の年齢 1 134 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 1 三人の娘 

父親たちの生年と年齢。

細川藤孝は、四十九歳。

  忠興の父。
  天文三年(1534)の生れ、四十九歳。
  信長と同年である。

  嫡男と三女の婚姻。
  このことから、藤孝より、年上であろう。
  すなわち、光秀は、五十歳以上である。

織田信勝は、死没。

  信澄の父。
  
生年は、不詳。
  信長のすぐ下の弟である。
  とすれば、天文四~五年(1535~1536)頃の生れか。
  永禄元年1558、没。
  生きていれば、四十七~八歳くらいだろう。

荒木村重は、四十八歳。

  村次の父。
  天文四年(1535)の生れ。
  信長の一つ下。
  四十八歳。
  この頃は、毛利に庇護されていた。  

光秀は、荒木村重と深い関係にあった。

 以下、村重の略歴を示す。

  元摂津池田氏の家臣。
  後、主家を乗っ取った。
  摂津有岡城主。 
  
  天正元年(1573)。
   細川藤孝とともに、信長に臣従。
   摂津の支配を一任された。
   光秀・藤孝・村重は、ともに、西方へ要となる。
  天正四年(1576)。
   光秀・藤孝・村重は、ともに、本願寺包囲戦に参加。  
  天正六年(1578)。
   謀叛。
   光秀の説得、失敗。
   有岡城に立て籠る。
  天正七年(1579)。
   尼崎城に移る。
   光秀、調略。
   有岡城、落城。
   信長により、一族が惨殺される。
  天正八年(1580)。
   尼崎城より毛利へ逃亡。

光秀は、五十歳以上だった。

 これが、下限となるだろう。 


          ⇒ 次回へつづく



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