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本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 128 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐出陣 3 信長、出陣 

信長の勢威は、確実に成長していた。

 「戦わずして、勝つ」
 信長の望むところである。

「長篠効果」

 天正三年1575。
 長篠での、大勝利。
 信長の勢威は、強大なものになった。
 これが、「長篠効果」

「本願寺効果」

 天正八年1580。
 本願寺の降伏。
 それは、より強大化した。
 これが、「本願寺効果」。 

信長は、自分の実力に気づいていない。

 そして、今。
 甲斐侵攻。
 武田崩壊。
 信長の勢威は、さらに、大きなものになっていた。
 信長は、自身の勢威が、これ程までだとは思ってもいなかった。

「武田効果」

 それは、やがて。
 否、間もなく。
 武田の滅亡を経て。
 爆発的に、強大化する。
 これを、「武田効果」と呼ぶ。
 

          ⇒ 次回へつづく



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