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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 1 13 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 1 信忠、出陣 

信忠は、後継者として申し分のない人物だった。

 この戦いで、それに相応しい手柄を上げたのである。

  今度、三位中将信忠卿、
  嶮難・節所をこさせられ、
  東国に於いて強物(つわもの)と、其の隠れなき武田四郎に打ち向かひ、
  名城の高遠の城、鹿目(かなめ=要所)と、
  究竟(くっきょう)の侍ども入れおき、相拘へ侯を、
  一旦に乗り入れ、攻め破り、

信忠は、逞しい戦国武将だった。

 東西の戦場で、武勲を上げた。
 幾度も出陣し、合戦経験を積み重ねていたのである。

  東国・西国の誉を取られ、

信長は、これに満足していた。

 信忠は、心強い存在だった。
 「おらばこそ」
 先へ進むことが出来た。
 
  信長の御代を御相続、

太田牛一がその証人である。

 「後代の手本・模範である」、と言っている。
 理想的な後継者だったのだろう。
 世間の誰もが、その様に見ていた。

  代々の御名誉、後胤の亀鏡に備へらるべきものなり。
                           (『信長公記』)

織田家の前途は、大きく開けていた。

 信長は、後顧に憂いがなかった。
 内外、ともに、順調に推移。
 「これで、よい」
 充実していた。
 織田家は、安泰。
 その将来は、きわめて明るいものだった。

            ⇒ 次回へつづく 


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