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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 2 86 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 2 信忠、諏訪進出 

穴山梅雪が武田を裏切った。

 梅雪(信君のぶただ)は、天文十六年1547の生まれ。
 勝頼の一つ年下。
 母は、信玄の姉。
 正室は、信玄の娘。
 勝頼とは、従弟であり、義兄弟の関係にあった。
 すなわち、最も濃い武田氏の一門衆。
 重臣中の重臣であった。
 その、梅雪が離反。
 織田へ寝返った。 
 
  さる程に、穴山玄蕃、近年、遠州口押への手として、
  駿河国江尻(静岡市清水区)に要害拵(こしら)へ、入れ置き候。
 
  今度、御忠節仕り候へと上意侯処(ところ)に、
  則ち、御請け申し、
  甲斐国府中に妻子を人質として置かれ侯を、

  二月廿五日、雨夜の紛れに偸(ぬす)み出だし、

武田勝頼は、重臣・身内に見棄てられた。

 「梅雪、謀叛」
 勝頼は、直ちに、諏訪から新府城にもどった。
 
  穴山逆心の由承り、館(たち)を拘(かか)ふべき存分にて、

  二月廿八日、武田四郎勝頼父子・典厩、諏訪の上原を引き払ひ、
  新府の館に至りて人数打ち納め候ひキ。
                          

徳川家康が駿河から甲斐に突入した。

 家康は、穴山梅雪を案内者として、駿河から富士川に沿って北上し、
 市川(山梨県西八代郡市川三郷町) に進出した。
 武田氏の躑躅ヶ崎館までは、凡そ四里(16km)。
 
  家康公、穴山玄蕃を案内者として召し列れ、
  駿河河内口より甲斐国文殊堂の麓、市川ロヘ御乱入。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく 


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