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本能寺の変 1582 光秀という男 6 117 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 6 1500年代 

1500年代、初期。

 将軍は、11代義澄・10代義稙(義材改め)・12代義晴の時代。
 土岐氏は、政房―頼武―頼芸の代。

細川政元が殺害された(永正の錯乱)。

 永正四年(1507)。
 湯殿に入っているところを襲われたという。

 政元は、修験道を信仰し、女人を近づけなかった。
 それ故、子はいない。
 そのため、三人の養子を迎えていた。
 このことが、新たな争いの種となる(両細川の乱)。
 その結果、京兆家は、急激に力を失っていく。

足利義稙が将軍に就任した(再任)。

 義材は、流浪中、→義尹→義稙と改名している。

 永正五年(1508)。
 大内義興に支援され、上洛。
 将軍に復帰した。
 
 足利義澄は、近江へ逃げた。

          ⇒ 次回へつづく




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