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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 174 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 4 大うつけ 

信秀と清州の間に、和議が成立した。

 同、天文十八年。
 秋の終わり頃。
 
平手政秀の努力が、ようやく、実を結んだ。
 清州織田氏との間に、和議が結ばれた。 
 
  翌年、秋の末、互いに屈睦して無事なり(互いに譲歩して和睦した)。
 
 政秀は、なかなかの風流人であったようである。
 これを祝し、清須の宿老らへ送った書状の中に紀貫之の一首を添えた。
 
  其の時、平手、
  (清州の)大膳・甚介・河尻かたへ、和睦珍重の由侯て、書札を遣はし、
  其の端書に古歌一首これあり。

 
   袖ひぢて、結びし水のこほれるを、春立つけふの、風や解くらん*、
 
  と候へつるを覚え候。

  か様に、平手中務は、
  借染(かりそめ)にも、物毎(事)に、花奢(風雅)なる仁にて候ひし。
                          (『信長公記』)

  
  *袖を濡らして掬った水が凍ったのを、立春の今日の風が溶かす
   のだろうか(「古今和歌集」紀貫之)。


          ⇒ 次回へつづく

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