本能寺の変 光秀の年齢 4 144~148 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の年齢 4 最大の敵
*144~148は、バックナンバーです。
144 信長は、二つの大遠征を計画した。
その間隔が、あまりにも短かすぎた。
一、甲斐遠征。 『信長公記』
一、中国遠征。 『信長公記』
145 信長は、さらに九州を平定しようとた。 『信長公記』
光秀は、遠征の過酷さを知っていた。
146 光秀は、滝川一益の上野入国を思い起こした。『信長公記』
一益は、信長の命に従った。
光秀には、国替えの可能性があった。 『信長公記』
147 光秀は、老人に近づいていた。
最大の敵は、時間だった。
光慶は、若すぎた。
光秀の最大の悩みは、光慶だった。
148 光秀は、明智の将来が不安だった。
光秀は、体力に衰えを感じていた。
信長は、猜疑心が強い。
光秀もまた、猜疑心が強い。
光秀には、信長に対する不信感があった。
明智の命運は、中国出陣によって定まる。
⇒ 次回へつづく
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