本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 1 11 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 1 信忠、出陣
信長は、甲斐を攻めた。
少し前のことである。
この年、二月。
二月三日、信長公、諸口より出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
駿河口より家康公、
関東口より北条氏政、
飛騨口より金森五郎八大将として相働き、
伊奈口より、信長公・三位中将信忠卿、二手に分つて御乱入を
なすべき旨、仰せ出だされ侯なり。
先陣は、織田信忠。
この時、25歳。
総大将である。
二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
尾州・濃州の御人数、木曾口・岩村口両手に至りて出勢なり。
信長は、光秀に参陣を命じた。
信長は、十一ヶ条の条書を発した。
その中にある。
筒井順慶・細川藤孝は、ともに与力。
光秀の指揮下にあった。
二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
条々 御書出
大和の順慶は、出陣すべし。
但し、高野山への兵は残すこと。
また、吉野の警固を油断せぬこと。
一、信長出馬に付いては、大和の人数出張の儀、筒井召し連れ罷り立つ
べきの条、内々其の用意然るべく侯。
但し、高野、手寄の輩少し相残し、吉野、警固すべきの旨、
申しつくべきの事。
藤孝は、丹後警固のため残し置く。
但し、子の忠興と与力の一色満信は出陣すべし。
一、永岡兵部大輔の儀、与一郎、同一色五郎、罷り立ち、
父、彼国に警固すべき事。
光秀は、出陣すべし。
一、惟任日向守、出陣の用意すべき事。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
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